〇吉永英未の留学アルバム総集編をスライド動画で
   作りました。
https://youtu.be/cm4nGmygpi4。https://youtu.
be/cm4nGmygpi4  2017(平成29)年6月28日(水  

 ●EMIのアルバム帳が出来ました。
 ●7月 卒業先輩たちの想い出 旅立ちのとき
 ●7月 南京大学日本語教室の生徒たちに日本料理をご馳走しました。

● EMIの詩集のページです。


 ○英未『東南アジア平和之旅』   第5章 シンガポール&台北 は縦書きで。

 ○英未『東南アジア平和之旅』   第2章  カンボジア編を縦書きエッセイ風に
 ○英未『東南アジア平和之旅』   第1章  旅立ち・タイ編を縦書き
 ○英未『東南アジア平和之旅』   第3章  ベトナム・シンガポール編
 ○英未『東南アジア平和之旅』   第4章  インドネシア編
 英未中文エッセイ『我和馬佳明』
 ●英未日記『卒業のとき』2017.5.
 ●英未日記『論文初回提出を前に』2017.3.25
 ●英未日記『論文初回提出を終えて』2017.3.30
 ●英未日記『春のひかり』2017.4.2
 ●英未日記『新学期を前に』2017.2.20
 ●英未日記『花火のような「希望」を』2017.1.2
 ●復旦日記『工友ーかけがえのない仲間たち』2016.11
 ●復旦日記『私の原点・再会』2016.9
 ●復旦日記『力の花・バトミントン・努力の花』2016.10
 ●復旦日記『自分へ、そして今「頑張っている」人たちへ』2016.4

























春のひかり  吉永英未 2017..2

       検測通過通知 

 4月1日、父の63歳の誕生日を明日に迎え、私は論文の「検測」に通過したことを知った。この「検測」とは、論文の引用以外の引用が、論文全体の10パーセントを超えていないか審査するものである。

もし引用が基準を超えていた場合、訂正を加えなければならない。私は、参考文献がほとんど日本語の文献だったため、引っかかることはないだろうとは思っていたが、論文をオンラインで論文を提出したため、「提出完了」という実感すらあまりなかった。

 

4月1日、「また来たか」と陳先生に言われるのではないかとか、論文が通過していなかったらどうしようなど考えながら、緊張した身体で、歴史学部教務課の開いたままのドアをノックした。私が口を開く前に、「吉永英未、あなたの論文は検査に通過した。」と陳先生に大きな声で告げられた。嬉しかった。初めて、ほっとした。私は、お世話になった行政職員室の李先生、王先生にこの結果を伝えた。

論文を書き始めてから初めて、周りの人から「おめでとう」と言われた。あとから、論文を提出したのはクラスの中で三番目、無事に検測に通過したのは一番目、論文の厚さもほかの過去の学生の比べてとても厚かったと言われた。私はひとまず、お世話になった方々に一つの難関を超えられたことを報告した。

これからの審査

 これからの過程として、論文は校内審査と学外審査にかけられる。校内審査は、すべての学生が、学内の副教授以上の先生方三人に審査をしていただく。そして、学外審査は、システム上で無作為に選ばれたクラス全体の10パーセント未満の学生の論文が学外に送られ、復旦以外の大学の専門を問わない教授の方に審査される。

 

このとき自分の名前、指導教員の名前、大学名も隠され、ただ論文のみが審査される。この審査は厳しく、わたしはただ、この極めて低い可能性で審査対象に選ばれ、私の論文が学外に飛ばされないことを祈るのみである。

この間、現在提出している初稿は修正可能で、万が一審査に通過しなかった場合でも、先生方のアドバイスのもと修正を加え、もう一度審査してもらうことができる。これらの審査を通過ると、今度は5月末までに自分の指導教授を除く5名の教授のもと、(内一名は学外の教授)論文の質疑応答が行われる。

これに合格すると、論文は大学の論文判定委員会に送られ、620日前後に学位が渡されるのだ。最終的に、論文は復旦大学図書館のシステムに登録され、将来、一般公開されることになる。論文のキーワードや名前で検索すると、自分の論文が出てきて、誰でも、全国どこからでもダウンロードすることができるようになる。

 この制度のおかげでわたしも、論文を書く段階で様々な大学のたくさんの方々の修士・博士論文及び学術論文を参考にさせていただいていた。いま、将来自分の論文が一般公開されることを思うと、ちょっとはずかしくも思うが、嬉しくも思う。

 

春のひかり

 約一年間、論文執筆に奮闘した日々。好きなことも、やりたいことも、少しずつ我慢し、減らしてきて、最終的には論文だけを目の前に、毎日を過ごしてきた。4月1日に検測の通過通知を受けて初めて、やっとほっとすることができた。

 4月2日、中国は清明節で、お墓参りをするための祝日である。私は、春と同済大学に桜を見に行くことにした。念願の桜を、もうすでに散ってしまいそうな上海の桜を見ることができることを嬉しく思うとともに、支えてくださった方々に、感謝してもしきれない感謝のきもちで、胸がいっぱいになる。

 

無事に最終質疑応答に合格することを望む一方で、そのときにはもう、復旦を、中国を離れなければならないということも悟らなければならない。長い間目の前のことに一生懸命になりすぎて、いまはちっともここを離れるという実感がないのだが、少しずつ落ち着いて、残された時間、お世話になった人たちに、感謝の気持ちを伝えなければならない。そして、お別れをする準備も、しなければならない。

 

 私が論文を提出した当日、親友に赤ちゃんが産まれた。13歳の頃から陸上部で、共に人生を「走って」来た親友。彼女の子供の名前が「ひかり」と聞いたとき、私ははっと彼女の笑顔を思い出した。私の母に嬉しそうに、結婚を報告する彼女の笑顔を。母は病室のベットに横たわりながら、でも嬉しそうに彼女の幸せを祝福した。2年前、私の母がそっとこの世を去ったのは、寒い冬だった。今年の春、新しい命が誕生した。天国にいる母が、笑っている気がした。暖かい春の光を照らして。

 

2017年4月2日 本当は大好きな父の63歳の誕生日を祝福して

 


      論文初回提出を終えて 3・30  吉永英未                     

    最初で最後のゼミ

 日本の大学で必ずあるゼミは、中国の大学ではそうもないことを知った。ほかのゼミがどうなのかわからないため、はっきりとしたことは言えないが、私の指導教員の学生全員が、顔を合わせることは、一年時に同じ授業を受けていたときを除くと、二年時からいままで、一学期に一度しかなかった。

 

毎学期の終わり、指導教員の馮先生が自分の学生全員を招き、大学のレストランで一緒に食事をする、それが一学期、最初で最後の顔合わせである。もちろん、ゼミ生と約束して個人的に会うことはできるが、日本の大学のゼミのようなまとまりやその団結の暖かさはなかった。

 

 論文提出を前に、今年から歴史学部に予備質疑応答制度が導入された。卒業前の論文の質疑応答のとは別に、初稿を提出する前に、指導教員を除く三人の先生の前で自分の論文について発表し、審査するのだ。そのため、私たち馮先生の学生は、228日に馮先生の研究室に集まった。

 

論文を見せ合って、あれはどう、これはどう、「これで大丈夫かな?」と言い合った。初めての、最初で最後のゼミといえるものだった。さみしくも、くやしくもあったが、それ以上に一つの大切なことをやり遂げなければならないというプレッシャーに、感慨しているひまもないことを自分に言い聞かせた。

論文提出

 ゼミのあった夜、馮先生は私の論文を一晩で見て、最初から最後まで添削を加えてくださった。またもや、感動して、言葉にならなかった。その翌日、提出する目標であったが、参考文献の書き方と史料の分け方に苦戦し、その日のうちに提出することはできなかった。そして330日、午後5時前、ついに論文を大学の教育システム上に提出した。

 

学内審査用と学外審査用の二種類の格式の論文と、論文の概要である。提出したあと、過去にオンラインで登録した基本情報の部分にまだ不安があり、いつもの教務課の陳先生を尋ねると、今度は強い口調で「ここに聞いてもわからない」と言われてしまった。

 

 提出したその日、じつは私の気分は落ち込んでいた。3日間の奮闘で精神的にも身体的にも疲れ果てていたせいもあるが、一番は、わたしが焦りすぎて、そのせいで周りの方々に迷惑をかけてしまったからである。実は、私は論文の提出が330日までだと思っていたのだが、実際のところ、最終締め切りは4月5日だということが提出する日にわかったのだ。以前、クラスメイトと顔を合わせるたびに提出期限を確認したが、みんな口を揃えて「うん。そうだよ」と答えるので、私もその気になってしまっていた。

 

周りの学生も初めての手続きのため、理解が十分でなかったのだと思う。私は人一倍焦り、ラストスパートを走りきったのだが、その「焦り」のために、馮先生、そして周りの方々にたくさんの負担をかけてしまったことを深く反省した。

 

 思い出すと、ゼミの途中で私が「早く桜を見に行きたい」と言ったとき、馮先生に、「そんな時間なんてない」と一言で返されてしまったが、一晩で私の論文すべてに添削を加えてくださった翌日、私に、「論文の本文はもう問題ないから、今日は桜を見に行けるよ」と言ってくださった。

 

私の焦りを、自分しか見えていない「わがまま」を、周りの一人一人の方々は包容し、咎めることなく、ただ私に、前に進ませてくれた。一生懸命になりすぎて、目の前のことしか見えていなかった私は、そんな周りを見ることもできず、たくさんの人を巻き込み、大きな迷惑をかけてしまっていた。                      

 330



論文提出をまえに  吉永英未                          2017.3.25   

 

 論文はいよいよ最後の修正に取り掛かり、330日までにワードで歴史学部の教育管理システムに提出することになっている。「終わり」にさしかかるにつれて、焦り、不安、覚悟、様々な感情が込みあがってきた。「終わる」から、喜べるはずなのに、私の心の中は複雑であった。

 3月に入って、仲の良い友人に「論文を見てくれないかな」とお願いしたところ、「いま忙しいから」とあっさり断られてしまった。私は、「そうだよね。わかった!また論文終わったら一緒にバドミントンしようね!」と返したが、それから立て続けに二人の友人にもあっさり断られてしまったことは、私にとって心に大きな釘が刺さったようだった。

 

もちろん、相手には私を手伝う義務も責任もないから、断られても仕方のないことなのは十も承知なのだが、これまで、論文添削と内容についてのアドバイスのお願いについて、友だちから一度も断られたことのなかった私は、部屋に帰ると、ポロポロと涙を流していた。

 

 

「なんで最後になって誰も助けてくれないんだ」。悲しい気持ちは大きく膨らみ、一つの塊になって、胸を締めつけた「もう私にできることはやり尽くしたんだ。あとは中国語と、論文の中身について、先輩や友だちにアドバイスをいただいて、訂正を加えることしかできない。」そう決めきっていた私は、周りに支えてくれる人がいなくなってしまったことに不安を感じ、そして、「誰も助けてくれないなら論文はこれまでだ。」と自暴自棄になり、惨めな気持ちと、やりきれない気持ちであふてしまっていた。涙は、止めどなく流れた。

 

 

 本当は、心の底から、諦めたくなかった。周りの方々のアドバイスと中国語の添削が必要なことは確かであったが、私自身に出来ることに、もちろん終わりなどなかった。私の戦いはまだ終わっていないことも、いまのプレッシャーを受け入れなければならないことも、わかってはいた。わたしは、論文の最終段階で、自分の限界を決めきってしまっていた。

 

 締切を前に、論文以外にも大学に提出する書類やオンラインでの手続き、その一つ一つを確実にこなさなくてはならなかった。論文が本当に最後の段階に差し掛かるにつれて、卒業に関わる大事な手続きも自分ひとりでしなくてはならない上に、論文の最終添削も終わっていない。そのプレッシャーのために何倍にも膨らみ、格段と難しく見えた。論文の最終修正も「これですべてが決まるのだ」と自分を脅すため、それらの試練をとてつもなく大きなものに捉え、それはのちに精神的な負担に変わり、更に自分に圧力をかけてしまっていた。

 

悲しみと、不安な気持ちは積もり積もって、自分ひとりでは耐えられなくなってしまっていた。思いっきり泣いて、母に話しかけてみたりして、自分に冷静になるようにうったえた。締切を前に、自分を見失いそうになりながら、でも取り憑かれたように論文のことだけは寝ても覚めても頭から離れなかった。

 

 今思うと、乗り越えられる人達にとって、こんなことは当然で、なんのプレッシャーもいなくこなしていけた段階だったのかもしれない。しかし、人に頼ることが得意で、甘えん坊で、精神的にも強くない私にとって、この最後の難関は、復旦に入る前のプレッシャーと同じくらい、いや、それ以上にはるかに大きかった。

 

 そんな私に前を向かせ、現実に向き合うように支えてくれたのは、家族の支えと、「論文の重み」であった。この論文は、決して、私一人で書いたものではない。先生方の支えと、そして、10万字を越える論文のたたき台の段階から、中国語を添削し、辛抱強く私にアドバイスをくださり、支えてくださった友人と、先輩方とともに書いたものである。

 

彼らの支えがなければ、私の論文は永遠に、「おわりに」を書くに至ることができなかっただろう。その論文の重みを、友情の重みを感じた私は、何が何でもこの論文を完成させ、提出し、卒業を迎えなければならないと思った。

 

「日中友好の架け橋になる」そう誓って、三年前、ここ復旦大学に来た。それから二年間、架け橋になることはおろか、日本や中国のために何も貢献することができていない自分に気づき、自分自身に何度も落ち込んだ。しかし現在、私は、私が中国で書いたこの一本の論文こそが、日中友好そのものなのだと気づいた。

 

この論文は、私の観点と、先輩のアドバイスと、数え切れない友人による中国語の添削を重ねて、初めて完成することができたものである。この論文が学術的に、研究分野に対して大きな発展をもたらしたということは難しいかもしれない。でも、人生で初めて一つの学問の焦点に向かい合い、幾度となく友人に助けをもらい、苦しみもがきながら書き上げたこの論文は、私と私を信じ支えてくれた友人たちとの努力の「結晶」であり、ほかのなにものにも変えられない唯一の日中「友稿」である。この論文の重みが、私がどんなつらいときも、くじけても決して諦めないように、前を向かせてくれた。

 

暖かい場所

 提出前の3日間は、夢の中で論文を提出してしまうほど、それだけをただ思って生きていた。食事をすることは第二、第三だった。朝起きるとパソコンをつけて論文を確認、お茶だけ飲み、午前11時まで粘り、お昼に食堂で二倍のお昼ご飯をお腹に詰め込んだ。なぜならそれがその日の最初で最後の食事になるからである。

 

 この辛い間、私が「居場所」としていたのは、歴史学部行政課の職員室であった。ここは、修士一年生のときに私が一年間通った場所である。朝8時半に出勤すると、カートを引いて復旦本部全体の郵便集計所に行く。そして、歴史学部の注文しているその日の新聞と、先生方に届いたEMSや手紙、小包などをカートに詰め込んで、引いて帰って来ては、学部の先生方のポストにそれら郵便物を割り振る。多い時、作業は約1時間ほどかかる。

 

 

しかし毎回名簿を見ながら先生方のポストを探すため、歴史学部の先生方全員の名前とポストの大体の位置を一年目にして覚えることができたことは、その後の大学生活に役に立った。歴史学部の先生なら、お会いしたことはなくても、名前だけはしっかりと覚えている。

 

 私がこの行政職員室に顔を出すと、李莉先生と王永剛先生が笑顔で迎えてくれた。私が、もうすぐ論文を提出すると告げると、「それは大事な時だね。この職員室で作業していいよ」と言ってくださった。二年前に私が座っていた席には、新しい学生が座っていた。私は、遠慮なく空いた席に座り、パソコンとにらみ合った。

 

この行政職員室は教務課職員室に近いため、聞きたいことがあった場合、すぐに聞きに行くことができる。私がそこで作業していると、顔見知りの先生がいらっしゃっては、私の顔を覗いた。新しくいらっしゃった先生が入ってくると、私を見て、「新しく来た助手ですか」といった。職員室の王先生は、「彼女は僕たちの職員室のOGだ。それも国際OGだ。」と説明してくださった。

 

職員室で働く二人の先生方は、私に場所を提供してくださったばかりでなく、わたしに心の「居場所」を与えてくださった。緊張でガチガチになった私の心に暖かい風が吹いたのを感じた。

 

 食事の時間も惜しんで論文の格式を変えている私を見て、李莉先生は「えみ、食堂のごはんなくなっちゃうよ。ご飯食べてからまたやりなさい」と優しく私に言った。午後5時になって職員室も閉めなければならないため、私も片付けを始めると、王先生は、「もしここで引き続き勉強したかったら、ここに残ってやるといい。帰るときは電気を消して、自動ロックドアを閉めるだけでいい。」とおっしゃってくださった。

 

 

「あなたは私たちのところの一人だから。」二年前に働いていた私のことを今もなお覚えていて下さり、論文の最後にわたしに暖かな光を灯してくださった李先生、王先生の優しさを、その言葉を、私は忘れることができない。私が始めてここで働き始めたとき、王先生は、復旦歴史学部の行政職員室で働き始めて四十五年とおっしゃっていた。

 

定年退職後も同じ場所、同じ机で働き続けている王先生は、復旦を誰よりも知っていて、歴史学部を誰よりも愛していることを、私たち学生も、そして先生方も知っている。その日の夜、私は11時まで職員室に残っていた。

 

との出会い

 320日、腫れた目で歴史学部の教育課の陳先生を訪ねた。一から十まで、手続きについて聞いて、その場でオンラインの必要事項を埋めていった。あまりにも何度も尋ねるので、しまいには、陳先生に、「また来たか」と言われてしまった。それでも辛抱強く先生が手の空くまで待っていると、「吉永英未、学籍番号は?」と聞かれた。

 

先生は教育システム上の手続きに漏れがないかしっかり確認してくださった。私が6回目に職員室に入ってきた際には、「まったく。今日はあなた一人に尽くしたよ。」そう呆れたように言った。「厳しくてこわい」で有名な教育係の陳先生だが、実はとっても心の暖かい方であることを、私は知った。

 

 321日、わたしは歴史学部の行政室と教務室を行ったり来たりしながら、パソコンで必要事項を打ち込んでいた。簡単な手続きも、自分ひとりでは合っているのか自信がない。中国語で書かなければならない部分は必ず、友人に確認してもらわなければならない。困った顔をしている私をみて、二年前に私のしていた仕事をしてる修士一年の学生が話しかけてくれた。同じ歴史学部の後輩の李春である。彼女はオンライン上で私が書いた情報を一つ一つ確認してくれた。彼女のおかげで、個人情報入力などの手続きを完了することができた。

 

論文はというと、文章は書き終わったが、文章全体の最後の確認と、論文の格式や目次の挿入、参考文献の整理など、ワードを使いこなす作業が残されていた。とくに論文の格式に誤りがあると、致命的なミスに繋がるため、慎重に慎重を重ねた。

 

しかしながら、パソコンが苦手なわたしは、初めての作業にとても自分ひとりではこなすことができなかった。仲の良い先輩の一人、李先輩は博士課程で、同じく今年卒業を迎える。そんな、ともに忙しい彼にも、わたしはお願いをしてしまった。

 

「明後日には提出しないといけないんだ。なのに格式がまったくひとりでは調整できない。」「えみのことなら、僕がたすけないとしょうがないね」理系の彼は歴史学部の文章はよくわからないけど、といいながらも、論文全体の格式を調整し、目次など加えたあとはしっかりと大学の指定した格式に変わっていた。

自分の論文もまだ完成していない中で、力を貸してくれた先輩に、感謝してもしきれない。

 

 論文の文章の最終確認について、私が何度6万字の論文を読み返しても、もう文法や内容構成の間違いは見えてこない。しかし、論文の目次から結語まですべてを通して問題がないかどうか、いまだ確信は持てない。

 

私は、その日出会ったばかりの後輩春に遠慮がちに聞いてみた。「いま論文の最終確認の段階なんだけど、もしよかったら、ちょっとだけ見てもらえないかな?」この「ちょっとだけ」がのちに、3日間論文を見てもらうことになる。春は、「わたし、時間あるから大丈夫だよ。」そういって、それから提出までの3日間と半日、毎日私の部屋にパソコンを持って通った。

私は日本語の脚注や参考文献などを整理し、彼女は論文を最初から最後まで見直し、添削、さらに書式や段落、参考文献のチェックをしてくれた。先日出会ったばかりの彼女に、私を助ける義務などないのに、自分の時間と労力を犠牲にして、自分のことのように真剣に私の論文に編集を加えてくれている彼女を前に、私は目頭が熱くなることを堪えることができなかった。

 

天使のような彼女との出会いが、私を救った。それは、論文の中身の修正もそうだが、精神的に参って、ジタバタしていた私にとって、大きな心の支えとなった。彼女の無私の優しさに、「家族」のような繋がりさえ感じた。会ったばかりなのに、こんなにも人のために尽くせるものなのか。

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新学期をまえに

                       吉永英未  2017.2.20

 「寝ても、覚めても、論文」。9月に上海に帰ってきてから、毎日、そんな日々を過ごしていた。読んで読んで、書いて書いて、友人に見てもらって、アドバイスをもらって、また考えて、書いて、書いて、書いて。そんな毎日を過ごしてきた。時々、泣きたくなる日もあった。

いや、ほぼ毎日そうだった。「卒業できるかな」「私みたいに、優秀でもない人間が、復旦をしっかり卒業できるのだろうか」そんな不安といつも戦っていた。

でもそんな不安が、背中を押して、私を机の前に座らせていたことも事実だった。

 以前は、バドミントンやご飯の誘いは間違いなく断らずに、外へ飛び出していた。

しかし、論文を真剣に書き出すようになってから、そんな誘いも、論文を理由に断るようになっていた。自分にムチを打ち、断ったら断ったで、部屋で冷凍食品しか食べることのできない私は、後悔も付き物だった。

運動が大好きな私も、たまに運動をしたとき、疲れて帰ってきては論文に取り付けないため、それなりに「さじ加減」を覚えた。そうはいえども、たいてい、運動をして帰ってきたらベットに横になってしまっていた。それは、自分の体力が衰えていることも表していた。

 こんなに辛いということは、入学前に覚悟できてただろう、と言われるかもしれない。もちろん、聞いてはいたが、入ってみない限り、書いてみない限り、わからないことの方が多かった。

 周りの学生たちに圧倒され、自分に対する自信を失くしてしまった修士一年時。バドミントンだけは、自分を思いっきり表現することができると、体育館に自分の居場所をみつけ、それに浸っていた二年時。

友人の励ましはあったものの、向き合わなければならないのは「自分」だということを、その頃はまだ自覚していなかった。なんとかすべての単位を取り終え、卒業への道は開かれたが、「論文」というものに、まだ向き合う準備は出来ていなかった。

 「あれから」、今のような状態に入るまで、たくさんの人たちに支えられてきた。

 14万字の私の論文の「たたき台」、それを10日間かけて中国語の添削をしてくれた友人。それはただの流水式のものだったため、また書いて、自分の観点を少し加えてみて、大まかな背景のみの部分を削った。それをまた3日間かけて読んでくれた友人。そのアドバイスのもとまた変えて、変えて、変えて、書いて、書いて、書いた。

途中で行き詰ったら、先輩に連絡して、論文の行き詰っている悩みを相談して、アドバイスをもらい、また机に向かい直した。最初は、「これじゃ全然だめだと思う」というアドバイス。それから、これでもか、これでもかというくらい書き直して、具体的なアドバイスをもらえるようになった。

そして、今月末、歴史学部の先輩から、「あとは初回提出のあと、先生にアドバイスをもらえばいいと思う。」という言葉をもらった。論文は、「終わりがない」ことは承知だが、この言葉はひとまず私に、提出できる程度のところまでたどり着いたことを悟らせた。

その後、友人に5万字以上の論文に添削を加えてもらい、中国語を修正してもらった。その一週間、表を作成したり、年表を作成したり、参考文献を整理したりしていた。だから、気を抜く暇もなかった。

 そんな日々の中で、先日、復旦の語学生を卒業した後輩が日本から遊びに来てくれ、一緒に外灘に連れ出してくれた。久しぶりの「お出かけ」に、私は一番はしゃいでいたこと間違いない。

日本からお客さんが来るたびに必ず訪れる外灘は、もう何回目に来るのかわからないが、私にとって、どこに行くかは大事ではなく、旧友と他割のない話をしながら、夜の街を歩くことが、何よりも楽しくて、幸せに感じた。

 論文は、私に、身近な幸せに気づかせてくれたことも確かである。「外に出られるだけでうれしい」、「青空が見られるだけで嬉しい」と思えるようになった。

よく、「幸せを探しに」といって旅に出る人がいるが、自分を追い込んだ時、厳しい日々の中で過ごしているほど、「幸せ」に出会うことができるのだと気づいた。それは、美味しいものをたべたいとき、美味しいお店を探すより、思いっきりお腹を空かせることがもっと手っ取り早いのと同じなのかもしれない。

 「論文のために」「論文第一」と呪文のように唱え、大好きなバドミントンや、友達との交流も断念して、机に向かっていた日々。「なんでわたしばっかりこんなに苦しまなければならないんだ」と自暴自棄になって、投げ出したくなることもあった。

でも、先輩から来るメールの、率直で厳しい意見の最後には、「あとひと踏ん張りだから頑張れ」とか、「卒業を祈る」とか、そんな言葉が必ずあった。

親友には精神的に支えてもらい、先輩も、友人にも、あまりにもたくさんの人に助けてもらい、諦めようにも、投げ出したくも、投げ出せなくなってしまっていた。

そして何より、こんなにも情熱を注いだ論文が、いまは審査に通過してもしなくても、これだけ頑張ったということに、私自身、後悔はないと言うことができる。その気持ちが、もしかしたら、私がこの論文に一番求めていた気持ちなのかもしれない。

 もう少しで始まる新学期を前に、今の気持ちを言葉にしてみた。今学期は、これまで復旦で過ごしてきた三年間の集大成とも言える最後の4ヶ月である。ここで改めて、これまで支えてくださった全ての方々に感謝し、これからも努力し続けることを誓いたい。

不器用で、実はなにも備えていない私が、25年間生きてくることができたのは、両親をはじめ、数え切れない人たちに支えられ、時に叱られ、私を成長させてくださったからである。私は一生、感謝しても、しきれないだろう。

 いつの日か、社会に貢献できるようになったとき、精一杯、このご恩に報いたい。

 

2017220日深夜 吉永英未

 


花火のような 「希望」を       吉永英未2017

 201617日、不安を抱えてタイ・バンコクに旅立ち、東南アジア6カ国を周り、そこで得た感動と他では体験し得ない経験、私にとって2016年の幕開けは一生に残る旅であった。1ヶ月にわたる東南アジアの旅を終え、上海に戻り、孤独との戦い、そしていつしか夏が来て、鹿児島に一時帰国した。


卒業前の最後の一時帰国である。お世話になっている親戚や先生方にお会いし、気合いを入れ直し、目標を確認し直した。そのとき、鹿児島大学の木村朗先生から頂いた「喝」に、感謝しないわけにはいかない。復旦に何しに来たのか、私の最後の大切な任務、論文と向き合うことを、お叱りと「喝」を入れて教えてくださったのが、木村先生であった。

 恩師の方々にがっかりさせないために、そして自分自身のために、新学期が始まった9月から私は真剣に論文に取り組み始めた。初めて自分で論文構成を書き終えたとき、「私にもできるんだ」と湧き上がってきた自信と、そう思えた感動を今でも忘れられない。

 図書室(サークルの活動室)に行く数は減り、なるべく多くの時間を論文に費やした。予定が無くて外に出なくても良い日は、前日に食堂で2食分をタッパーに詰めて冷蔵庫に入れ保存し、一歩も部屋から出ないでパソコンと本に向かい合った。

しかし、その一歩も外に出ない日は辛く、二日間も続くと精神的にきつかった。そのため、そんなときは自分を慰め、夜図書室に行って友達と時間を過ごした。大好きだったバドミントンからも一歩引き、自分に「引退」を言い聞かせた。

 そんなとき、復旦大学日本人研究生会との出会いがあった。復旦にいる大学院生の集まりであるが、前学期2人しか出会ったことがなかった日本人大学院生が、今学期になって初めて集まり、私たちはこの院生会を結成、月に一度自分の研究発表をすることになった。その第一回目が私の論文の中間発表で、中国語で書いている内容を日本語で発表させていただいた。


ドキドキしながら始まったが、中国語の文献を読み、書いているものを母語で説明することで自分の頭の中を整理することができた。院生会のメンバーは10人ほどで、私だけが復旦の修士課程に正規で属し、他の先輩方は東北大、九大、一橋、立命館などから交換で来ている。

専攻も出身もバラバラだが、論文の落としどころ、方向性と論文の価値など、重要な部分を話
し合い、貴重なアドバイスをいただいたことは大きな収穫となった。

 11月には、同じテーマで研究をされている上海交通大学の翟新先生にお会いし、交通大学で三時間にも及ぶ面談を行った。著書を読み、その後ろに書いている著者の紹介をもとに連絡をして、お会いしていただき、専門的なアドバイスと、私の論文に対する鋭い指摘をいただいた。

先生からの厳しいご指摘に、私は思わず後退してしまったと落ち込んだが、これまで支えてくれた友人や先輩方に励まされ、また立ち直した。足りないところを指摘されるということは、論文にまだまだ伸びしろがあり、成長の空間があるということで、プラスに受け取ることで、前に進むことができることに気づいた。

 今年度最後の発表は、1226日の日本人院生会で、私の論文の問題点と、これからどうやって修正を加え、形を整えていくのか具体的な方法について丁寧に先輩方に指導していただいた。そして27日は指導教員の馮先生に意見とアドバイスをいただいた。

論文は自分の子供のようで、愛情を注げばそれだけ磨きがかかると言われるが、逃げていた前学期から、向き合い始め、格闘し、そして様々な方に読んでいただきアドバイスをいただくことで、一層、また一層と磨きをかけることを覚えた。

その背後で支えてくれたのは、私の論文を根気強く読み、厳しい言葉をくれた友人たちであった。10万字の論文を3日間かけて読み、中国語を添削し、アドバイスをくれたのは、文学部博士の李昌懋、哲学部修士2年の李
旋、同じ歴史学部の明源先輩、そして部分部分で訂正してくれた数え切れない友人たちであった。彼らには感謝してもしきれない。

 

  1229日、日本にいる親友のまこに誘われ、論文のことを引きずっていたわたしも半分無理やり背中を押されて一緒に三泊四日の瀋陽、大連の旅に出ることになった。「遠ければ遠いほうがいい」という彼女のリクエストのもと、もともとハルビンに行く予定だったが、学校の関係で1月2日には上海に戻る必要があったので、友人のいる瀋陽と大連二つの都市に行くことになった。


東南アジアの時のごとく、瀋陽で私たちは現地集合を果たした。私が上海から瀋陽に到着したのは午後三時半過ぎ。瀋陽出身の肖雄君が迎えに来てくれていた。李昌懋の高校時代のクラスメイトで親友の彼とは、復旦の図書室であいさつを交わしたことがある程度だった彼の印象は、いつもニコニコ微笑んでいることだった。そんな彼に瀋陽で合流し、市内に行って瀋陽の街並みを紹介してもらった。


「満州国」の時代、日本は瀋陽を占領した。瀋陽、あとにいく大連、そして長春の広場は3つの都市同じ背景の広場がある。大連の「大和ホテル」が象徴しているように、これらは日本が占領していた時代に建てられたものである。

 昼マイナス6度、夜マイナス14度という極寒の中、足をバタバタさせて夜の瀋陽の街を見学した。というのも、足を動かさないと指先が凍ってしまいそうだったからだ。彼の歴史の解説を聞きながらも、私はその冷凍庫にいるような寒さに、ここより北のハルビンに行かなくてよかったと心から思った。


写真撮影しようと思ったら、携帯は「凍死」、上海から持ってきたダウンも瀋陽の寒さにはかなわなかった。ガタガタ震えている私をみかねたのか、「僕は慣れてるから寒くないから。」と肖雄は自分の着ていたコートを脱いで私に着せてくれた。朝鮮人の方々も多く住む瀋陽で、韓国料理を食べて、今度は彼のお父さんの運転で夜11時に瀋陽に到着したまこを迎えに行った。

 翌日、自分の気持ちにかかわらず、寒さでいやでも気合の入る瀋陽の朝、彼の案内のもとで私たちは瀋陽観光を始めた。まず最初に、お寺にいき、1230日、母の三回忌のお参りをした。そして、故宮、九一八記念館、キリスト教の教会など訪れた。理系の彼の歴史の解説は、行き届いており、心から感心した。

 瀋陽の最後の夜、肖雄のお父さんとお母さんと一緒に食事をした。お父さんは中学、お母さんは小学校の先生という彼。彼の家の本棚にはたくさんの本が並んであった。私はいま勉強中の囲碁の本をもらった。

 私とまこは瀋陽の夜をあとにし、翌朝また大連で彼と合流した。鈍行列車で瀋陽から大連まで来てくれた彼の親切に、ただただ感動した。瀋陽、大連での食事、チケット代などすべて彼に負担させてしまった。レジの前で私と彼のお金の渡し合いが行われるが、結局彼にすべて払わせてしまった。

「これは中国の“伝統”のようなものだから。僕のところに友達が来てくれたら、絶対に僕がすべておもてなしするんだ。」と頑固としてお金を受け取ってくれない彼に、私たちは申し訳ない気持ち、そして感謝の気持ちでいっぱいになった。

 

 大連での最後の夜、私は2012年大連に交換留学時代に出会った友人の家で大晦日の夜を過ごした。あれから5年の月日が経っていた。当時25歳だった彼女はもう一歳児の母、私は当時の彼女の歳になっていた。思い出話に花を咲かせ、私たちは別れを惜しんで再会を誓った。

 もうすぐ卒業すると言うと、多くの中国人の友人は、「中国人と結婚してここに残りなさい」と言う。その暖かさを心からありがたく思い、自分にもその問いかけをする。私の最終的な目標は、日本で大学の先生になり、私が大学でなりたい自分を見つけ、輝く目標を見つけることができたように、一人でも多くの学生に、輝く道を見つけ、そのお手伝いをすることができたらと願っている。そして、目の前にいる人たちの力になりたい。


一生を、貧困を中心とする平和問題に取り組み、平和と向き合い、自分の力の限り平和を築いていきたいと思っている。それが私の、大雑把ではあるが、変わることのない、人生の目標である。具体的な卒業後の道について、はっきりとした目標はまだ決まっていないが、まず目の前の修士論文を完成させ、復旦大学を卒業することが、現在の大きな目標である。もちろん、素敵な人と結婚し、幸せな家庭を築きたいとも心から願っている。

 2017年が私にとって、飛躍の年であるならば、きっとこれからもずっとずっと熱い何かを追いかけ、夢を見ていられると思う。叶えられないから夢になり、夢は目標としてずっと私の人生の道を照らしてくれる。いまは、悲観的に理想を語るのではなく、幸せに寄り添うように夢を語りたい。

 人生は花火のようだと母が言っていた。花火のようにあっという間に消え去ってしまうのだと。でも、花火の懸命に上がる姿と、必死に咲き誇り、そして儚くちっていく姿を、見ている人がいて、感動する人がいることを、心に留めておきたい。それが「希望」なのだと私は思う。人生は花火のように儚い、でも希望は誰かの心の中に永遠に生き続けると。

 終わりは始まりを告げ、私たちはまた歩き出す。儚く散ってしまう人生に「希望」を残すために。

 

20171月2日 復旦大学留学生寮にて 

 

 





感謝してもしきれない感謝の気持ち      2016・11       

  工友―かけがえのない仲間たち。     吉永英未

 復旦大学で過ごす三度目の誕生日を迎えた。

何気ないふだんの生活の中で、たくさんの数え切れない人に支えられて生きていることに気づく。その優しさにときに涙することもある。そんな日は、そんな感謝の気持ちを忘れたくなくて、日記に留めておきたいと思う。

  図書室の人たちと交流し始めてから一年が経とうとしている。この一年間で、様々な人達と出会った。それは、遠い故郷を離れて上海に出稼ぎにきた人たちと、彼らの力になりたいと願う学生たちだった。

 ここでの「図書室」とは、大学の図書館のことではなく、復旦大学で働く、出稼ぎにきた人たちのために、ボランティア活動をする「校工服務隊」のメンバーが作った図書室のことである。

この図書室は、彼ら工友(ここでは復旦で働く人たちを指す)の住む宿舎の二階にあり、広さは決して広くないが、本棚には本がぎっしりと並べられている。これらの本は、図書館からいらなくなった本をもらってきたり、学生が寄贈したりしたものである。(私もいくつかの日本語の本を寄贈した。)工友の仕事は、食堂で料理を作ったり、警備の仕事などをする、オフィスで働くホワイトカラーの仕事とは対照的で、体力仕事のきつい仕事である。

6年ほど前に作られたこの図書室だが、復旦大学での工友支援のボランティアの歴史は浅くはない。また、このように大学で働く工友のために大学内にサークルがあり、ボランティア活動が行われているのは、うちの大学だけではない。

たとえば、復旦は北京大学、清華大学とも「工友服務隊」同士の交流があり、大学内で働く「工友」だけでなく、中国全土の「出稼ぎ労働者」に関心を持ち、フィールドワークを通して調査を行っている。工友と直接交流し、より良い環境、待遇を得られるように努力しているのだ。

私たちの大学では、毎日工友が仕事を終えて宿舎に戻ってきたあと、午後8時半から図書室で様々な授業を行っている。たとえば、私は前学期火曜日の夜日本語の授業を担当し、彼らと日本文化を通して交流した。

また、英語学科の学生は英語、国際関係学部の学生は政治の授業、そして毎週水曜日は体育として、バドミントンや卓球を工友と共に楽しんでいる。工友は、学生ではないため、大学内の図書館に入ることも、体育館を利用することもできない。私たちは工友が読みたい本を図書館で借りたり、体育館の予約をしたりする。

また、今学期から「中国語講座」も始まった。それは、甘省から出稼ぎに来た20歳から30歳の婦人方のために開かれたものである。彼女たちは、20歳を過ぎているが、学校に行ったことがないため、中国語(普通語)を上手く話す事ができない。また、中国語を書く事も、ピンインを打つこともできない。現在は女の子も学校に行けるようになったが、彼女たちが子供の頃は、そのような文化的背景の中で、女の子は学校に行くことができなかった。

彼らは方言を話す(普通語にかなり近いが、やはり発音は異なる。)ため、故郷を離れると、まず言語の壁にぶつかる。漢字を書く事も、ケータイで打つこともできないため、ケータイを使ってのチャットではすべて音声を使ってメッセージを送っている。また、彼らの働くところはハラム(イスラム教専門の食事)のレストランや食堂のため、周りにいるのもすべて回族、同じ故郷の人たちのため、異郷で働きながらも普通語を学ぶ機会がほとんどない。

彼ら回族ムスリムは、ハラムの食事しか食べることができないため、働く場所はかなり限られている。そんな回族の彼らの心は純粋でとても美しい。回族の彼女たちのために、毎週土曜日、学生たちは小学校で教えるようなピンイン(中国語のあいうえお)から教える。彼女たちの学ぶ意欲はとても強く、「いつかケータイで漢字を打ってメッセージを送りたい」と意気込んでいる。

そんな工友たちの学ぶ姿をみて、私は、自分の置かれた身とその責任を深々と感じ、更なる努力を誓うのである。

このようなことを述べていると、いつも私たちが工友のために働いているのだという印象を受けるかも知れない。しかし、私たち学生と、工友は、友情の絆と信頼で結ばれている。先日は同じ年代の工友と学生4人で、深夜1時まで語り合った。そのうちの学生の一人、哲学を学ぶは、夏休みに出稼ぎ労働者とともに工場で実際に働いた経験もある復旦大学の修士二年生である。


彼は学部を復旦の新聞学部(メディア学部)を出て、マルクス主義に興味を持ち、大学院入学の試験は哲学学院を受験した。そんな彼は夏休み、蘇州の工場で一ヶ月間働いた。自分の身分は隠し、工友たちと共に汗を流した。そんな彼の周りでは、大手企業や金融機関でインターンシップをしたり、海外で
PhDを取る学生など少なくない。周りの学生は「君はなんでそんなにもたくさんの時間を工友のために費やすのか。」と彼に聞く。

あの日の夜、図書室で、彼は私たちに語った。

「僕にはこれしかないんだ。僕は他に何も特技がないし、大学の中でもひときわ優秀というわけでもない。でも、工友のために少しでも何かできることで、僕にとっては生きがいを感じらる。何より、彼らと過ごす時間が本当に楽しいんだ。」

彼が工友のためにこんなにも時間を割く理由が他の学生たちには理解しずらいかもしれない。でも、私にはその気持ちがわかる気がする。工友はよく、「いつも私たちのためにありがとうね。食堂にご飯食べに来なよ。安くしてあげるから。」という。でも、感謝しているのは、私たち学生たちの方であって、彼らと接することで、人間の暖かみを感じ、図書室にいる事で自分の居場所を見つけることができる。生きがいを感じることができているのほかの誰でもない、私たち学生たちなのである。

 私には中国のお母さんがいる。北食堂で働く張麗おばちゃんである。

張おばちゃんの目は誰よりも優しくて、どこか母に似た面影がある。おばちゃんも、私を本当の娘のように可愛がってくれ、食堂で働く他のおじさん、おばさんたちに、「私の本当の娘よ。」と私のことを紹介してくれる。

「もう日本に帰りなさんな。中国人と結婚して中国に残りなさい。あなたが帰ってしまったら、おばちゃんさみしくなるから。」と言ってくれたおばちゃんの言葉に目頭が熱くなった。

母のような暖かさ、本当の娘のように温かく包み込んでくれる帳麗おばちゃんは、わたしの中国のお母さんである。

  復旦の授業を聴講するために、福建省から出稼ぎに来た丁東、彼は高等教育も受け、もともと受付などの仕事をしていたが、哲学に興味があり、復旦大学の哲学の授業を聴講するために、大学内でウェイターをして生計を立て、仕事の合間に授業を受けている

。復旦は開放的で、ひとつの授業に聴講生がたくさんいる。彼らは他の大学の学生であったり、働いている人たちであったり、復旦の修士課程を受験したい人だったり、様々である。

 丁東の哲学の思考力はなんとも言い表せないもので、とにかく彼は、「すごい」。そんな彼と私たちはよく、夜中まで哲学について語りあう。

 

 姜作彼は大学の門を守る警備員で、山東省出身。過去7年間軍隊にいたため、がっちりとした体つきが特長だが、とても優しくて、日本が大好きで、私が日本語を教えていたときは一番積極的に発言してくれた。

 汪竹君、かっこいい名前だが、女性である。私より4歳年上で、本当にお姉さん的存在。図書室の中では一番仲が良くて、なんでも話せる仲だ。復旦付属のホテルで受付をしている。

 

上記のような工友の他に、6教学楼の向かいの工友宿舎には、たくさんの工友が住んでいる。そして彼らのために、少しでも力になりたいという人たちで集まったのが、私たち校工服務隊であり、物理学部、国際関係学部、法律学部、社会工作学部、医学部などなど学生の出身は様々である。私たちはその特技を活かし、図書室で専門の授業をしたり、映画を放映したりしている。

そんな温かい人たちの集まる図書室は、いつしか私にとって温かい「家」となっていた。いや、大学が、中国は私を温かく見守ってくれていると感じる。

自転車がなくなったその日のうちに、私に自転車を譲ってくれた親友。

スカートに穴が空いたとき、何も言わずに縫ってくれた食堂のおばちゃん。

一度故郷へ帰ったのに、私たち学生が恋しくなってまた復たんに帰ってきてしまったと言う南食堂で働くおばちゃん。

そのひとりひとりの優しさが、私にとっては涙がこぼれるほど嬉しくて、どう感謝したらよいのかわからなくて、ただただ、友情や愛に国籍など関係ないんだと、こころのそこから感じるのである。

私が復旦で得たかけがえのないもの、それは、国籍や年齢、学歴や社会的身分を超えた友情であり、信頼関係を築いてきたかけがえのない仲間たちなのである。

そんな私にとって尊い、かけがえのない仲間たちに、感謝の気持ちをこころから伝えたい

 

 

力の花

                      復旦日記 20169月  吉永英未

 修士論文について

 ここ復旦で過ごす、最後の一年がとうとう始まった。まずはわたしの留学の集大成になるであろう修士論文について。

  修士論文に対して、今までの力の入れ具合が2パーセントだとしたら、現在は80%のところまできているのではないかと思う。大学の食堂でいろいろ買い溜めては冷凍し、宿舎から一歩も外に出ずに論文に取り組んでいる。冷凍食品を食べ続け、パソコンに向かい続けた。その結果ついに論文構成を自分の手で書きあげた暁には身体中がしびれていた。

  このような状態に入れたのは、恩師のお叱りと、先輩の励ましであった。お叱りを受けて、励まされて、私はやっと本気になることができた。現在中国語で10万字を越える文章を書いたわけだが、これから大掛かりな修正と改正が必要である。

 

バドミントンの試合への誘い

 復旦でバドミントンを始めて、三年目となる。入学してすぐに参加した試合で三位入賞してから、私にとってバドミントンはひとつの娯楽であり、情熱を注ぐものとなったことは間違いない。それからというもの、勉強がついていけない、もしくは自信がなくなると、バドミントンに逃げていた自分がいた。

少なくても体育館のコートの中では、自分を表現することができる。そして周りの人も私を認めてくれる。そんな気持ちの中に浸っていた。もちろん、バドミントンで出会った友人は少なくなく、彼らとの友情はかけがえのないものである。彼らとは勉強についても哲学についても、人生についても語ることができる。

 しかし、だんだんと気づき気づかされてきたのは、学問に向き合うとからずっと逃げてきたことである。たしかにバドミントンでは、自分を大きく表現することができるのかもしれない。

でも私は、バドミントン留学に来たわけでもないし、向き合うべきものから逃げたところで結局問題は解決できていないのである。友達との会話、自分との会話でそのことに気づいた私は、だんだんとコートから離れていった。健康のための適度な運動程度で、友達に誘われてはバドミントンを楽しんでいた。

 9月中旬。バドミントンの試合に出てくれないかと大学から声がかかった。私の気持ちは複雑だった。それには遡らなければならない過去がある。

 修士1年時、バドミントンに闘士を燃やしていた私は、復旦大学を代表して大学チームに入れることを心待ちにしていた。そして、チームの練習の日には毎回顔を出して、機会があればチームのメンバーと打っていた。しかし、チームの雰囲気、チームメイトの態度は「熱烈歓迎」というものではなく、私が頼んだから打ってあげるというような雰囲気だった。コーチも私の存在はあまり気にしていなく、いてもいなくても変わらないというような感じを肌身に覚えざるを得なかった。

そのことに気づいた私は、はっきりいって「居づらく」なり、自然とチームから抜けていった。それからというもの、チームのメンバーと打つことはなくなり、チームが占領するコートの傍らコートで、他の友人や先生方と打つ日々が続いた。それから二年の月日が経っていた。

 そんな過去もあって、今年度に入って突然の試合への誘いを素直に受け入れることができなかった。「これまで二年間、私を空気のように見ていたのに、なんで今頃、しかも卒業準備に忙しくなった時に試合に誘ってくるのだろう。」私は彼らに歓迎されず、コーチにも見て見ぬふりをされ、雑草のように育ってきたのだ。今更プライドの高すぎるチームに戻りたくはない。そんな気持ちが胸からずっと離れられなかった。様々な感情がこみ上げ、断ろうと準備していた。

そんなある日、地下鉄に乗っていたときのこと。地下鉄が地上に出て、暗い景色が一気に青い空と立ち並ぶビルに変わった。私はふと、気がついた。プライドが高いのは、私のほうだということを。チームのメンバーに嫉妬したり、コーチに不満を抱いていたのも、他の誰でもない、私の方だということを。心のわだかまりが、さっと溶けたような気がした。

そして私は、もう一度だけ、大学のチームに、微力ながら力を貸そうと決意したのだ。チームのメンバー、コーチとのわだかまりをとり、雑草のように育ってきた私の、本当の姿をもう一度見て欲しかった。以前は勝ち負けにこだわりすぎていたのかもしれない。でも、いまはもっと大切なものに気づくことができた。そんな私をもう一度みてほしかった。

 バドミントンに時間を割くことができるのも限られているため、私は団体戦だけ参加することにした。1022日、復旦大学を代表して初めての外部の試合に参加することになる。しかし、私には心の中に決めていることがある。

それは、道徳を持ってバトミントンをするということである。試合に負けてもいい。しかし、どんなときも道徳を捨ててはいけない、そう心に言い聞かせた。この決意には、高校生の苦い思い出まで遡ることになる。

 

努力の花

 『努力の花』は私が高校三年時、校内スピーチコンテストに出場したときのスピーチ原稿のテーマである。私は高校の三年間を、青春を、情熱を、すべてバドミントンに捧げた。寝ても起きてもバドミントン。その魅力に、完全にとりつかれてしまった。私がバドミントン部に入ったのは1年生の中で一番早く、また中学時代陸上部だった私は、フットワークも人一倍速かった。

初心者のため、初めのうちは羽を打つことができず、素振りとフットワークを半年間続けた。憧れの先輩がコートで活躍する姿をみて、自分もいつか先輩のように輝きたいと、どんな努力も惜しまなかった。

  気が付くと、同期のメンバーは全部で12人になっていた。笑いが絶えない、最高のチームメイトにもなっていた。しかし、校内戦が近づくとそのような友好的な雰囲気も一変してピリピリとなった。校内戦では、チームメイトと戦い、その結果レギュラーになれるかどうかが決まる。みんな試合に出るために必死で練習し、校内戦に臨んだ。

  私はというと、試合で勝つことができない。。。過去何回かの校内戦で勝ったことが一度もない。それどころか、新しく入って何ヶ月目の人にも勝利を譲ってしまう。そんな自分が悔しくて、強くなりたい一心で、部活の練習が終わると、自転車を父の車に積んで、車の中で母の作ったお弁当を食べ、地元皇徳寺小学校で夜間練習をした。

私は体力だけは、自信があり、中学2年時には20メートルシャトルランは男子に劣らず108回、高校のロードレースでも4位入賞した。その体力を頼りに、手当たり次第バドミントンに打ち込んだ。

 しかし、試合となるとどうしても勝つことができない。「こんなに努力しているに。。。」そんな自分への焦りと、チームメイトへの嫉妬、コーチに認めてもらえない悔しさなど、3年間幾度も涙を流しながら長田川沿いを自転車で帰った。

  努力しても、努力しても、試合に勝つことができない。私はその悔しさを、いつしかチームメイトにぶつけてしまった。「私はこんなに努力しているんだ」そんなことを言わんばかりに、強情になり、八つ当たりした。

そんなある日、部活のミーティングの場でなんと私の「批判大会」が開かれたのである。

大切なはずのチームメイトが、一人ひとり、私に対する不満を打ち明けた。

私は、思いもせぬチームメイト11人からの批判に、自然と涙が溢れていた。がむしゃらになりすぎて、まったく自分の姿を見ることができていなかった

。そのため大切なチームメイトを、言葉で、行動で、傷つけてしまっていたのだ。私がこの集団にもたらした悪影響は計り知れない。こだわっていたのは自分の「勝利」だけで、相手の気持ちを考えることなんてまるで頭になかった。

自分はこんなに努力しているのに、誰にも認めてもらえなくて、惨めで、悔しい思いをしているのは自分だけなのだと、思い込んでいた。

 道徳の欠片もなく、人間としての資格もなくなりかけてた私は、チームメイトからの厳しい指摘に、気づかされた。最後に彼らは、「私たちはえみを傷つけたいのではなくて、えみに変わってほしいだけなんだよ。」と言った。

 高校最後の引退試合。個人としては初の三回戦まで出場することができた。試合会場には、母も駆けつけてくれ、私の最後の試合を見届けてくれた。

団体戦にはレギュラーとして参加することができなかったけれど、これまでの自分の努力に、悔いはなかった。

私は、自分も試合に出ているつもりで力のこもった応援をチームメイトに送った。共に汗を流し、努力してきた仲間と一緒に笑顔で引退することができたこと。私にとってかけがえのない宝物となった。

 「努力は必ず報われる」と簡単に言うことはできない。私は三年間努力して、努力し続けててきて、結局レギュラーになれたことは一度もなかった。結果だけを見るとそうかもしれない。

でも、高校三年間で流した汗と、涙と、唇を噛み締めた思いは、10年たった今でもはっきりと覚えている。そして、仲間が教えてくれた何よりも大切なこと、人を思いやる心、その後もずっと胸に刻んでいる。

 ひとつのことに捧げる情熱、それは、どんなことに対しても無駄にはならない。たとえ成果を残すことができなくても、がむしゃらに努力したことは、きっと自分自身の力になっている。

高校時代、私がバドミントンに注いできた情熱は、のちに英語捧ぐ情熱になったり、中国語になったり、そして論文になったり、形を変えて私の原動力となり、背中を押してくれた。あのとき諦めず、努力してきたことは、自分だけがしっかりと覚えている。

そして、無駄な努力はないのだと、どんなときも私に教えてくれるのだ。

  大学を代表して、試合に参加することが決まってから、大学のチーム内で練習することになった。しかし、私は、これまで通り一緒にバドミントンを楽しんできたチーム外の仲間と打つことを、やめてはいない。

初心者の人たちに教えることもやめていない。

彼らは、私を心から温かく受け入れ、これまで一緒に歩んできた仲間である。勝ち負けは、コートの中だけで決まるかも知れない。でもコートの中だけでは決められないものがある。

大切なのは、名誉やプライドではなくて、そこにいる一人ひとりを思いやる気持ちなのではないか。試合の有無に関わらず、大学を代表するチームメイトであるかないかに関わらず、私が大切にしたいのは、あの時見失ってしまった、しかし一番大切な気持ちである。そんな心をもって、これからもバドミントンを楽しんでいきたい。

 あっという間に過ぎてしまった9月。中国は今、国慶節に入り、7日間の大型連休となっている。みな半袖を着ているほど、秋はもったいぶってまだ上海には来ていないようだが、北京から来た友達は、北京はもうかなり肌寒くなったと教えてくれた。

先日は深夜3時まで、図書室の友達と、ボランティアをする意義から哲学、人生、平和について語り合った。時間を忘れて、語り明かした。

人はみな、社会から認められたいと思っている。みんな、自分の居場所を探している。みんな、様々な悩みや思いをもって生きている。たったそれだけのことを確認しあうだけで、すごく楽になれた気がした。

その日の夜、私はぐっすりと眠った。

 

2016104日 吉永英未





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復旦日記 私の原点、再会             吉永英未

7月。第一週目には全てのテストが終わり、第一弾の学生たちは、両親の待つふるさとに帰っていった。大学の中に暮らす私たちは、食堂や図書館、大学内を歩いていると、人の流動が伺える。大幅に人が減ったため、食堂では並ばなくてもすぐにご飯が食べられるようになった。

普段は、授業が終わる11時半を時計が回ると、食堂には長い列ができ、自分が並んでいる列で何を食べられるのか分からないまま並び続け、おかずを目の前にしてやっと注文できるという具合である。

「第一弾」というのも、旧正月を過ごす冬休みと違って、夏休みの場合約半分の学生はその前半をインターンシップや課外活動、研究生となると実験や研究で大学に残るため、約半分の学生だけが実家に帰るためである。その他の学生は、夏休みの後半に一、二週間実家に帰り、新学期のはじめにまたもどってくるのである。

第一弾の学生が実家に帰った頃7月の初め、私の本当の戦いが始まった。今学期一番お世話になり、心を許しあった食堂の馬くんは実家に帰り、上海にもどってくることはないということで、涙のお別れになった。

図書館で勉強しながら自然に涙が溢れてくるほど切ないお別れとなったが、そんな中でも私には向き合わなければならないことがあった。それは、半年前に申し込んだIELTSの試験である。試験料が1800元と、決して安くない値段、そして何より、自分で決めた目標を簡単に諦めるわけにはいかなかった。

半年前から参考書を買いあさり、以前これらのテストを受けたことのある学生から勉強方法を聞いて回った。復旦大学の学生は、私の周りで大体3人のうち一人は過去にIELTSもしくはTOEFLを受けたことがある。それも高得点を取っているので、様々なアドバイスをもらうことができた。

中国では、本の値段が日本と比べてかなり安い。また、中古のものもあり、その値段の安さに欲しい本はついつい全て買ってしまう。

IELTSとは、全世界で行われているケンブリッジ大学の主催する英語の試験で、大抵の場合イギリスの大学もしくは日本のいくつかの研究生入試の英語科目にも認められている。試験は、聞き取り、長文読解、作文、会話(Listening ,Reading, Writing, Speaking)その全てで、試験は約3時間に及ぶ。TOEFLに並び難易度は高く、何万という単語を暗記しなければならない。

高校以来まともに英語の試験勉強をしたことがなかった私は、まず「勉強」そのものに慣れるのに時間を要した。とくに長文読解には苦労した。文章を一生懸命読んでいると、前の文章の内容を忘れていく。また、問題文の中で出てくる単語がわからず悪戦苦闘するという具合である。

上海の夏は暑かった。少なくとも、鹿児島と比べるとかなり蒸し暑く、外にじっとしているだけで汗がにじみ出た。そんな暑さの中、7月30日の試験に備え、毎日のように図書館開館の時間とともにいつもの席に着いた。

朝6時起床、洗濯物を手洗いし、部屋をモップがけし、そのあと北食堂で朝食を済ませ、8時半の開館とともに理系図書館に入る。夏季休暇中に開放された教室は限られており、大学に残る学生はほとんど、涼しい図書館で自習するため、開館とともに席を取らなければ、9時には学生でいっぱいになってしまう。

昼食の時間になると席を外し、近くの食堂で昼食を済ませたあと自分の部屋に戻り、お昼寝をする。まさに、「中国時間」である。日本から来たばかりのとき、「え、お昼寝!!?」と最初は信じられなかったが、周りのどんな優秀な友人も昼寝をするし、午後1時半、2時頃になるとみんな起き出して勉強なり仕事なり行くところを見ると、これは効率の良い方法なのかもしれないと思い、私もやってみることにした。

 

早朝から活動を始めているため、お昼になるとたしかに眠くなる。しかも、昼寝をしたあとは、午後になっても眠気が来ることがなく、夜の睡眠にも影響が出ない。このお昼の1時間こそが、中国の方々の心身の健康の秘訣なのかもしれない。

お昼寝の後、午後はまた図書館に戻り勉強し、午後6時食堂のご飯がなくなる前に食堂で夕食をとる。夜はサークルの図書室に遊びに行き、おしゃべりをしたり、食堂で働くおばさんたちと中国のテレビドラマを見たりして過ごした。一日の中で唯一リラックスできて、楽しい時間だった。

そんな規則正しい生活を送っているうちに、ついに7月30日、IELTS試験の日がやってきた。筆記試験の3日前にはスピーキングのテストがあった。実際にイギリス人の試験官を前に、約15分の会話の試験が始まった。外国の方と話すことは日常的であったため、緊張することはなかったが、自分の言いたい事を長文で、相手に伝わるように話すのは私にとって簡単ではなかった。

筆記試験の会場で、外国人受験者は私ひとりもしくは、いても大変少数だったと思う。ほとんどが、夢を抱えた中国の学生、社会人の人たちだった。試験時間は約3時間だが、試験会場に拘束される時間も合わせると約4、5時間にも及んだ。試験中、水を飲むとトイレに行きたくなり、トイレに行くと自分の試験時間が削られるため、ほとんど誰も席を立たない。私もそのひとりだった。

試験が終わった時の開放感、何より、8月3日に鹿児島に帰ることができることに心から嬉しく、待ちきれなかった。

ふるさと

 83日、一年ぶりの帰国に胸を躍らせていた。私の期待をよそに、滑走路が込み合っているため、機内で待機することになった。待機しているうちに今度は雨が降り出し、「悪天候のため、大変申し訳ございませんが、、、、」と引き続き待機することになった。そのうち、飛んでいない飛行機の中で機内食も配らた。忍耐強く飛行機の中で待機すること4時間、飛行機はようやく上海を離陸し、一時間半後、鹿児島空港に到着した。

 空港に迎えに来てくれた家族の顔を見るたびに、時の流れを感じる。人間は、気づかぬうちに、でも確実に年をとっていく。自宅に帰る前に母方の実家で4日間余暇を過ごし、「にほん」を満喫した。霧島の自然はまるで私に「えみ、おかえり」と言ってくれているようだった。昨日まで中国の土地にいたことがうそのようだった。

 一年ぶりに帰ってきた我が家はちっとも変わっていなかった。変わっていたのは、子供の頃賑やかだった通りが静まり返り、いつも優しく声をかけてくれる近所のおばあちゃんの家がいつの間にか留守になり、以前は向こうの空まで見えていたところに新しい店が立ち並んでいることだった。

そして、親友との再会。半年や一年会っていなくても、まるで昨日会ったばかりのように、一緒に過ごしていた「あの頃」のように、離れていたその距離や時間を感じさせなかった。

 そして、お世話になった先生方との再会。母校である鹿児島国際大学は、私の夢のはじまった場所でもある。たった一日の大学日であったが、スクールバスを降りてから7号館へ向かう道は、大学で過ごした日々を思い出させてくれた。

 たった二週間の帰国であったが、様々な場所で、自分の原点を感じさせてくれた。お盆中、お墓の前で手を合わせるとともに、祖先の方々に感謝の気持ちでいっぱいになった。冬休み東南アジアを旅していた私にとって、一年ぶりの帰国だった。そして、一日一日全てが充実し、愛と反省に溢れていた。

 留学生活最後の一時帰国は14日間、あっという間であったが、一つだけたしかに言えることは、鹿児島は私の原点であり、家族、友人、お世話になった先生方は、愛を持って私を育ててくださったかけがえのない存在であるということ、そしてこれからどこへ行っても、どんなに時が経っても、それは変わらないということである。

私のふるさとは、ずっと、私のふるさと。

上海での再会

918日、私が上海にもどってくると、第三弾の学生たちが実家に帰っていったようであった。夏休み最後の二週間を、故郷で過ごすためである。私は、修士論文に取りかかった。指導教員の馮先生はイギリスに出張にいかれたため、とりあえずいまは自分でできる限り進め、新学期が始まってから再び面談をすることになった。

私の論文の時代背景は、日中国交正常化である。田川誠一という外交官の日記を中心に、国交樹立前、その未来を信じ、いまだ「戦争状態」だった中国に11回訪問し、交渉に当たった外交官について、その歴史認識や政策を中心に論文を書き進めている次第である。

8月末、上海にはたくさんの「旧友」と再会することができた。思わぬ再開に、驚きと喜びを隠せない出会いもあった。

上海に戻ってから3日後に、鹿児島国際大学に留学に来ていた賈慶超くんと再会した。賈慶超くんとは、一緒にラーメンを食べたり、作文を書いてはお互いに添削し合ったりするなど、学部時代はとても仲の良い友達だった。

現在吉林で働いている彼が上海に遊びに来るということで、彼に復旦大学を案内したり、午後は一緒に上海を観光した。時間が経っても変わらない友情は、もちろん国籍も問わない。私たちは昨日別れた友達のように、再会を喜び合い、変わらない笑顔で離れていた時を埋めた。

南京大学でお世話になり、現在上海でインターンシップをしていた樊士慶とは、一緒にバドミントンをしたあと、自転車で外灘The Bandまでいった。自転車で初めての遠出。予想以上に近く、30分足らずで外灘についた。地下鉄に乗るよりもとても気分が良い。とくに、8月末はあの蒸されるような暑さが溶け、外でそよ風に吹かれているだけで幸せな気分になった。素晴らしい気候である。

三人目は、これまた鹿児島国際大学時代のチューター熊青青さんである。彼女は、学部時代のチューターで、鹿児島に来たばかりの彼女を連れてケーキ屋さんに行ったり、私の家で食事をしたりした。笑顔が素敵な青青さん、そんな彼女となんと上海行きの飛行機を待つ鹿児島空港でばったり会い、一時帰国を終えた私と、これから一時帰国する彼女は、約4年ぶりの再会を果たした。

 

まさに、感無量である。お互いに「留学中」の私たちは、昔の話、今の話に花が咲き、おしゃべりが途切れることがなかった。そんな彼女がまた鹿児島に帰る際に上海を経由するということで、私たちはまた、上海の中心街で落ち合った。私たちは「あの頃」のように、笑い合い、人生について、語った。

そして、831日、この夏の最後、私の親友でもあり、大好きな先輩である王章玉先輩が深圳から上海にもどってきた。というのも、上海へ出張に来たのである。一年以上も会っていなかった私たちは、あの頃と同じメンバーで、あの頃と変わらぬ笑顔でまたここ上海で落ち合った。どんなに楽しい時を過ごしただろう。

「僕が卒業したら、きっと仕事が忙しくて、あまり君たちに連絡できないかもしれない。でも何年後、きっと帰ってきて、近状報告をしに来るからな。」

そういった彼は本当に、働いてからというものめったに連絡をくれることがなかった。私は彼らが卒業後、一緒にご飯を食べたり、バドミントンをしたり、楽しい時間を共に過ごした仲間がいなくなり、 さみしい気持ちでいっぱいだった。しかし親友が、私たちのことを忘れることなどもちろんなかった。一年後、王章玉先輩は本当に帰ってきて、私たちと再会した。涙が出るほど笑い、話は尽きる事がなかった。

 

一緒にバドミントンの試合に出て、二位を取ったこと。私の試合に応援しに来てくれたこと。仲間たちと彼の故郷、西安に行き、命懸けで華山を登ったこと。私のプレゼンテーションの発表を手伝ってくれたこと。誕生日、卒業式、中国の様々な祝日を一緒に過ごしたこと。一つひとつの思い出がまるで昨日のことのように蘇ってきた。

  友情も思い出も、色褪せることがない。時が経つにつれてそれはもっと味わい深いものとなる。この夏に再会した仲間たちの笑顔をこれからも忘れることがないだろう。またどこかで、と再会を誓い合った私たちはきっとまたいつの日か、どこかで、会うことができると信じている。

明日から始まる新学期。復旦大学で過ごす最後の一年が始まる。後退することがあっても、傷つくことがあってもいい。それらは全て、私の成長の糧となるから。お世話になった全ての人たちに感謝の気持ちを込めて、そしてこれから出会い、お世話になる全ての人達との出会いを祝福し、新学期の始まりをここに祈念したいと思う。

                                       201691日 吉永英未

 






日本の皆様 いつもお世話になっております。
2月は行って、三月は去って行くと言いますが、本当にそのようでした。
様々な生活の変化と、情緒の変化があったこのふたつきの日記を、
この文章に代えて日記とさせていただきたいと思います。
上海の桜は七分咲きです。あっという間に春が来たようです。
わたしは、春風邪をひいてしまいましたが、もう治ってきました。
皆様もお体に気をつけて幸せな日々をお過ごし下さい。         復旦大学 歴史学部 吉永英未


 自分へ。そしていま「頑張っている」人たちに  -復旦日記―

2016427日水曜日    吉永英未

 

4月は日本では新学期の季節だ。ここ中国では6月に卒業を迎えた学生が卒論とその発表に真剣になり、一番緊張する時期であると言っても良い。

私はというと、そのように忙しくする先輩方を見ながら、一年後は自分が卒論に、そして卒業を目の前にして様々な感情が浮かび上がっているのだろうと思いにはせる。と同時に、他人事ではない、と私も焦りを覚える。

はっきりいって、卒業はしたくない。こんな素晴らしい環境に、ずっといたい。でも、私が本当に学びたいもの、貧困問題や紛争解決、兵士の社会復帰などをここで学べるのかと聞かれると、答えはNOでる。

そのため、気持ちは焦り、私に課された歴史学の研究方法で研究した論文を提出すること、そしてあと三ヶ月と迫るIELTSの試験は、ますます私を不安にさせる。前に進みたいのに、進んでいる気がしない。時間をかけるべきではないところに時間をかけて、本当に時間をかけなければならない課題から逃げている。そんな気がしてならない。

 読みたくない本や英語の長文を見ると眠くなるのに、好きな本を読んだりドキュメンタリーを見ていると、時間すら忘れてしまう。

それは家の外でも同じで、好きな人と過ごす時間はすぐに過ぎてしまい、内容の理解しにくい授業では15分間が過ぎるのもやっとのことである。こんな自分ではいけないと思いつつ、なんとか力を入れようとするが、三歩進んで二歩下がるという具合で、効率は決してよろしくない。

 

学問の話はここまでにして、今回の日記では、生死と人生について書きたいと思う。生死について、語るには25歳の私にとっては早いだろうと思われるかもしれない。しかし、決して早くはない。むしろ、遅いとも言える。

人間は、必ず死ぬものなのに、死ぬのはいつも周りの人たちである。そうやって周りの人達を見送っているうちに、自分もいつかは死ぬのだ、と自覚する。でもまた健康に日々を送っていると、そんなことも忘れてしまう。

 

生きるということ。なんのために生きるのかということ。自分の夢を叶えるため。じゃあ夢って何なんだ。幸せのため。じゃあ本当の幸せってなんなんだ。

それはきっと、お金持ちになることじゃなくて、権利や地位があることじゃなくて、嫌いな人がいなくて、好きな人に囲まれて、愛に包まれて、誰も憎まず、憎まれず、愛し、愛されて生きていくことなのかと思う。

毎日綺麗な夕日が沈む姿を見て、夜には星を眺めて、味噌汁ご飯だって美味しく感じてしまう。だってわたしはいま、幸せだと感じているから。

 

 プレッシャーの中で生きていくことは、決して楽なものではない。権利や利益が背後にあれば、それを失うもしくは得られるかという不安に飼われて生活しなければならない。果たしてそんな息苦しい生活が、幸せだと言えるのかはわからない。

「どうしようもないじゃん」と言われても、しかたがない。しかしいつか、ほんの少しの間でいいから、立ち止まって、自分の姿を見つめることもいいと思う。自分の姿を見てきっと、落胆するかもしれない。でもきっと、「何か変えないといけない」と思うかもしれない。

 

私はいま、復旦大学卒業という大きな目標と、それに引き続く博士課程入学という目標との狭間にいる。どちらもまだ実現していないが、それを実現させるために、踏ん張っているつもりである。どちらかというと、踏ん張っているフリをしているのかもしれない。

 

ただ、一度立ち止まって考えてみたとき、「いまあなたは幸せですか?」と聞かれたとき、答えに困ってしまう。それは私だけではないのかもしれない。きっと、たくさんの人がその答えに困ってしまうだろう。果たしてその原因は何なのだろうか。そしてそれを解決し、皆が幸せに暮らしていけるにはどうしたら良いのだろうか。

部屋の中で、勉強をしている時以外、私はいつもそんなことを考えている。母の死から一年以上が経つが、母がこの世を去ってから、私は立ち止まって考えることが多くなった。これは非常に良いことである。

 

そもそも私は何のためにこんなに努力しているのか。もしくはなぜ努力が足りていないのか。そうやって自分に問いかけ、どうかわたしの命が尽きる前に、少しでも困っている助けが必要な人たちの力になりたい。そう思う。 

ここにきて、たくさんのとき、怖くて眠れない。目を閉じると金縛りにあったり、次の日目が覚めないのではないかと思い、眠るのが怖くて、目を閉じることができない夜がある。

 

長い長い夜。本を読んだり、書ものをしたりして過ごす。でも大半は、「生きるということ」そして「この世を去る」ということを考えている。

そんな長い夜が明けたとき、あることにふと気づいた。

「良かった。今日も生きている。」

そして、いつの間にか新しい朝がやってきたことに気づく。

 

天気が曇りでも、雨でもいい。ただ、朝が来ればいい。そして、思う。

生きるということは、何かを残したり、何かを成し遂げたり、毎日幸せに生きるように気をつけることじゃなくて、一日いちにちを一生懸命に生きるただそれだけでいいのだ。ただそのことだけに集中して、「生きている」と、毎日が思いのほか輝くのだ。

 

葉っぱの上の水の雫が輝いていたり、猫がバイクの椅子に座って気持ちよさそうに寝てるのを見たりして、くすっと笑えるような、そんな毎日でいいのだ。何も残さなくていい。

ただ一日いちにち、出会う人に少しだけ微笑んで見せたり、質素なご飯でも美味しそうに食べたり、うまくいかないことがあったとき、長い目で見て平気でいられるような、これはちょっと難しいけど、それくらいの安静な心をもって、日々を生きていくということ。それだけでいい。

 

そんなに忙しい毎日に頑張らなくていい。何かを残そうと、もしくは何かを得ようと、必死にならなくていい。ただ一日を、一生懸命に生きればいい。

太陽の光を体の芯から感じること、風が身体に当たるあの感覚を心で感じ、においを感じとること。どうでもいいようなことで微笑み、幸せを感じること。それだけでいいのだ。

この世界は、あなたがいなくても回っている。あなたがどんなに苦しみ、悲しんでいても、びくともせずに回っている。でも、あなたが笑顔になると、あなたのことを愛し、心に留めてくれているひとが、幸せになれる。それだけで、あなたは十分に、地球に、世界に貢献しているのだ。

だから、もっと笑顔になってほしい。もっと気負わずに生きてほしい。肩の荷物をおろして、そっと草花に話しかけてほしい。そしたらきっと草花も微笑み返してくれるから。

 

 自分へ。そしていま「頑張っている」人たちに言いたい。

どうか頑張りすぎないで。でも一生懸命に生きて。生きるということは、もっと簡単でいいんだよ。草花が一心に太陽の光を浴びるように、じつはとっても単純で、簡単で、でもあなたが気づかないうちに、しっかりと人を魅了している、そんなものなんだ。と。





流れる時間と思い出になる日々

 

 27日深夜12時に台湾の桃園飛行場を出発し、深夜2時半に上海、浦東国際空港に到着した。6時まで地下鉄の開通を待って帰ろうと思ったが、うとうととしている間に荷物が無くなることを恐れ、やはりタクシー(黒車)に乗った。復旦大学に帰ってきたのは、深夜3時すぎだった。前日の夜から一睡もしていないのに、深夜に帰ってくるやいなや、一ヶ月間留守にしていた部屋のモップがけを始めた。一ヶ月の東南アジアでの旅行、そして上海に帰国する前日に体験した台湾での地震、春節前夜の飛行機、なぜか落ち着いて眠ることができなかった。

 そうしているうちに、夜が明けた。私は、朝一番に食堂へ向かった。寮の部屋のインターネットが期限切れで使えなったため、食堂のインターネットを利用するためだった。

 28日は中国の大晦日。大学の寮は人っ子ひとりいなかった。中国人学生はみな故郷に帰省し、留学生もみな帰国していた。私は、台湾よりずっと寒くなった上海に一番厚めのコートを着て、携帯片手に食堂へと急いだ。

 食堂で携帯とにらめっこしていると、一人の若い男子が話しかけてきた。「お正月なのに帰らないの?」 「うん。」私が答えると、彼は私の横の暖房のスイッチを付けて、また話を続けた。

 「どこ出身?」 「日本。」 「日本?!」彼は驚いた。「日本は春節を過ごさないの?」 「日本は元旦を過ごすよ。」 「そうなの。。。」私たちはお互いの名前も知らない中、少しの間、会話をした。Wechat(LINEのようなもの)を交換すると、彼は仕事に戻った。これが、私たちの最初の出会いである。 

  馬佳明との出会い

 その日の夜、彼はチャットで、『今日の夜は中国の大晦日。食堂で食事をする人は、学内の人も学外の人も1分元だよ』と教えてくれた。私はその嬉しい知らせを聞いて、夜また食堂へと戻って来た。

 それからというもの、彼は毎回食事の時間になると『ご飯食べた?』と聞いてきた。私が『いま図書館にいるからまだ食べてないよ。』と言うと、なんと図書館の前まで彼の作ったごはんを持ってきてくれた。

 私はというと、春節のためすべてのお店が閉まり、インターネットのカードを買うことができず、毎日のように寮から一番近い北区の清真食堂に通った。このハラムの食堂で働いているたのが彼、馬佳明である。私たちはほぼ毎日食堂で顔を合わせるようになり、彼のお昼休みには一緒に散歩をしたりするようになった。出身も年齢も宗教も、何もかも違い過ぎる私達は、大学内を歩きながら、お互いについて話をはじめた。

 馬佳明は、1997年甘沁水生まれ、回族のムスリムである。農村生まれで家が貧しかった彼は、15歳から出稼ぎを始めた。『無席』の列車の切符を買った彼は、甘から北京まで、「立って」来た。

 北京での最初の仕事は一ヶ月1500元という給料の食器洗いだった。その後、警備員の仕事をした。給料は3000元に上がり、年齢が小さいが仕事ができると褒められ、正社員にならないかと勧められた。しかし、ムスリムの彼はハラムのレストランでしか食事をすることができず、食事のことを考慮すると同じところにいることはできなかった。 その後、姉の紹介のもと、冷蔵庫を運ぶ仕事についた。家庭用の大型冷蔵庫を一人で背負って運ぶという毎日に、彼の腕には、一生残る傷跡ができた。

 しかし、母親の「技術を身につけられる仕事をしなさい」とのアドバイスのもと、彼は杭州で手打ち麺を学ぶことにした。オーナーは上手く麺が打てない彼を麺伸ばし棒で殴った。こうして苦労して手に入れたのが、「手打ち麺資格書」であった。 この資格書を手に入れた彼は、現在の仕事である、大学の清真食堂で麺を打つ仕事に就いた。冬休みの間だけ、彼は復旦大学北区清真食堂に配属されたのである。

 そして、私と出会った。

食堂で静かに迎えた20歳の誕生日

 222日に、私の友人とともに、彼の二十歳の誕生日を祝った。家が貧しい彼は、一度も誕生日を過ごしたことがなく、一度もケーキを食べたことがないという。そんな彼のために、5ピースの、ハラムのケーキを囲み、私たちは彼の仕事が終わった夜8時に食堂で、静かに誕生日を祝った。

大陸に横たわる貧困


 きっと、多くの日本人の方には理解をすることが難しいと思う。

中国の貧困問題は、今もなお、この大きな中国大陸に横たわっている。テレビや本から得られる現状そのものは本当に限られている。

 私は、去年の夏休み貧困地区の小学校でのボランティアを通して、その現状を少しだけ、垣間見ることができた。

しかし、本当の「貧困」というのは、身近なところにあって、こうして出稼ぎに来ているほとんどの農村出身の人たち、またその家族は、貧困の連鎖に苦しんでいるのである。

 ここでは長く書く事ができないが、私が現在のサークル、「校工服務隊」に入っている理由の一つもここにある。遠い故郷を離れ、北京や上海、広州などの大都市に出稼ぎに来る農村部の人々。

私のような小さな人間に、大きなことを実践することは難しいが、まずは、「関心」を向けること、そして同じ目線で、目の前の現実を見つめることが、大切なのではないのだろうか。

その実践を行っているサークルに入り、彼ら出稼ぎで働いている人たちのために自分の小さな力を捧げることに、私はためらいを感じることはなかった。 

中国のムスリムの方たち

 中国には、56の少数民族がいる。しかし、人口の90%の人びとが漢族である。そのなかで、回族はアッラーを神とするイスラム教信徒、ムスリムである。豚肉がタブーなことは周知のことだが、他の肉でも、イスラム教の、特別に裁かれた肉しか口にすることができない。そして、一日5回のお祈りと、お酒や風俗などにも近づくことができない。食事も、ハラムのレストランでしか食べることができない。

 私はムスリムの文化について、インドネシアでの生活を通して少し理解することができた。そのため、中国のムスリムの方と接するとき、さほどの距離を感じることはなかった。むしろ、親近感さえ感じた。

 中国少年学社(校工服務隊) 

 私は、復旦大学に入学した当時から、中国少年学社というサークルに所属している。修士一年生の頃は、月に一度ほど読書会に参加する程度だった。しかし、馬佳明と知り合ってから、この図書室を彼に紹介し、わたしもより深く、このサークルに関わるようになった。私たちサークルは、社会問題に関心を持つ学生の集まりである。学部時代に鹿児島で科学論研究会にお世話になっていた私は、復旦大学にも同じようなサークルがあると知り、なんのためらいもなく入った。

 私達サークルのもうひとつの役目は、復旦大学で働く人たちのために尽くすことである。復旦大学には、食堂で働く人たちや、掃除をするひと、警備員など、様々な職種の方たちが働いている。この方たちの活躍があって、私たちが安心して学生生活を送れているのである。しかし、彼らの賃金は低く、ひと部屋8人でお風呂もないという劣悪な寮に住み、ほぼ休みなく、一日11時間、それ以上働いている。

 私たちは、聞き取り調査を通して彼らの労働状況を把握し、報告書にまとめたり、校工員たちと交流する場を設けている。活動室は、校工員たちの寮の二階に作った小さな図書室である。この図書室には、図書館が本を処分する前に私たちが回収した本や、経費で揃えた本、私達個人が寄贈した本が並んでいる。わたしも、日本語の本をいくらか寄贈した。そして、図書室には、仕事が終わったあと校工員たちがおしゃべりにやってきたり、高齢の方で、インターネットを利用したい方など、なんらかの手助けが必要な方たちが来た際に、お手伝いを行っている。 

 英未の日本語教室

 私は今学期、彼ら校工員を対象として、日本語を教えている。毎週火曜日、彼らの仕事の終わった8時半から9時半まで日本語の授業を開催することになった。私も、校工の方たちのために何か出来ることをしたいと思い、始めた日本語教室だが、30名近くの応募があり、小さな教室はいつの間にかいっぱいになった。授業に来てくださる人たちは、97年生まれから食堂で働く50代のおばさまたちまで様々である。

救われたのは、わたしのほうです。

 実はこの授業が始まるまで、私の生活は空っぽだった。今学期、授業は週に一度しかなく、人と接する機会が急激に減った。クラスメイトはみなインターンシップで学校に居ず、また、これまでなんでも話せていた友達がみな日本に帰国し、わたしは本当に一人ぼっちになってしまっていた。

 東南アジアでの一ヶ月の旅から帰ってきた私を待っていたのは、「孤独」、そして論文、英語、将来のプレッシャーだった。毎日机の前に座りながら、何もしないうちに一日、また一日と過ぎていく日々。やらなきゃいけないことは山ほどあるのに、なぜか前に進まない。進めない。論文は振り出しから動けず、IELTSを申し込んだものの、高校二年以来英語の試験を受けたことのないわたしは、読解能力の下降に、どこから手をつければよいか分からなかった。そして、覆いかぶさる将来への不安。

 そんなときに出会ったのが、馬佳明だった。彼とはじめて散歩をしたとき、彼はわたしにこう言った。「僕はえみが羨ましいよ。だから、頑張ってね。」この一言が、このたった一言が、私をどれだけ変えたのか、計り知れない。 馬佳明は3歳の時、石炭を掘っていた洞窟が爆発し、父を亡くした。彼は家族に仕送りをするため、15歳の時に出稼ぎに出た。

 私は、自分が15歳だった頃を思い出した。両親の愛に包まれて、恵まれた環境で、学問と、幸せな学生時代を送っていた。人生はなんでこんなにも異なるのだろう。見知らぬ男の子から、親友と呼べるまでに仲良くなった私たちは、お互いの人生のあまりにもの違いに、ただ、言葉では表せない思いに胸がいっぱいになった。 

 私は、中国政府から奨学金を頂き、このような恵まれた環境で、学ぶ機会を頂いている。それなのに、孤独だ、とか、さみしい、とか、勉強についていけない、と言って毎日自分に理由をつけては現実から逃げていた。

「えみは、夢を諦めてはいけないよ。今のえみに一番大切なことは自分の夢を実現させること。」6歳も年の離れた弟分の親友が、毎日のように暗い顔をしている私にこう声をかけてくる。ほかのどんな人から励まされるよりも、力になった。と同時に、前に進んでいない自分を悔しく、そして情けなく思った。彼は15歳から見知らぬ土地で出稼ぎをして、こんなに苦労をしてきているのに、わたしは、、、、。私にできることは、、、私に課された使命は、、、。毎日のように、そう考えざるをは得なかった。

 馬佳明は、わたしに、「えみからもらったものが多すぎて、どうやって感謝すれば良いか分からないよ。」と言う。しかし、実際に感謝しなければならないのは、私のほうであり、私を孤独の暗闇から救い出してくれたのは、彼のほうであった。

 「とき」は、止まらずに流れていく。。。運命は、予想もつかなくて、人々の人生は、こんなにも異なる。。。わたしは、「生きた時間」を過ごしているのだろうか。また、一日一日を無駄にしてはいないだろうか?わたしは、何のために生きてるのだろうか。そんなことを、いつも考えながら、また「とき」が流れていく。。。 

 卒業まで、あと半分を迎えた今学期、この一学期の努力が今後の一生を決めるといっても過言ではないかもしれない。だからこそ、焦り、ときに怖くて、諦めたくもなる。でも、私に与えられた出会いはすべて力になって、これから歩む道を照らしてくれる光になると信じている。

 私は、歩み続けなければならない。615室にて

4章 インドネシア①

       EDDYとの出会い

 久しぶりに飛行機に乗ったせいか、寝不足のせいか、シンガポールの空港で食べた食べ物のせいか、飛行機から降りると頭痛と腹痛に見舞われた。

トイレに駆け込み戻ってくると、親友の姿が見つからない。私たちはこのまま30分くらい離れ離れになっていた。

しかしやはりテレパシーというものは伝わるもので、すぐに再会を果たすことができた。

 ジャカルタ空港に着いた瞬間、一気に(気配のようなもの)がその前にいた国々と違うことに気づいた。

ここは、イスラム教の国。ムスリムの国。女の人はみんなターバンを巻き、ドレスを着ている。

私たちはいま、インドネシアにいるのだ。。。

ブルーバードタクシーに乗って友達のオフィスに向かっている間、私はずっと目を閉じていた。

いつもながら、新しい国に入ったとき、慣れるのに時間がかかる。

その国の雰囲気や気候、風土などの微妙な違いを、身体はしっかりとキャッチしているのだ。そしていきなり飛行機で降り立ったとき、わたしの身体はその変化にまだ対応することができない。

そのため、頭痛やだるさなどがもろに身体にくる。

 ジャカルタを訪れたのは、ここで働く友達に会うためである。

彼女は短期大学を卒業後、インドネシア政府の奨学金をもらい語学留学し、現在はジャカルタで社会人3年目である。

 彼女の専用運転手の(ちょっと荒い気味の)運転で彼女の家に着くと、まるで自分の家に着いたかのような気分になり、すっかりリラックスして、そのままソファーで眠ってしまった。

彼女が帰ってくると、これまでの旅での様々な物語を、わたしは一気に一生懸命に伝えた。

鹿児島の女の子が三人そろうと、海外でも自然と鹿児島弁が止まらなくなるものである。

私たちは笑いあった。

 彼女の家では、貴重品の心配もしなくてもよいし、どこに行くかの段取りもたてる必要はない、完全にリラックスしていた。リラックスし過ぎていたといっても過言ではない。

 

 翌日、溜まっていた洗濯物を洗濯機に放り込むと、もうひとりの鹿児島県出身の友達も加わり、私たち鹿児島おごじょは4人で車に乗って、食事、映画を見に出かけた。

ここでは、映画はとても安い。私たちが見た映画は日本や中国でまだ公演されていないもので、350円で見ることができた。

鹿児島の友達4人で映画館に座っていると、まるでミッテ10にでも来ているような錯覚さえおぼえた。

しかし、映画のあとに、「ここでテロが起きるかと思って少しドキドキしてた」という友達の声を聞くと、いま、先週外国人を狙ったテロが発生したジャカルタにいるのだということをはっと自覚した。 

当時犯人はカナダ人に抱きつき、一緒に自爆した。死者の数は10人程度であったが、爆発があったところは彼女の働いている会社のすぐ近くだったという。私は身も震える思いになった。今、世界は、いったいどこまで安全ではなくなっているのだろう。 

 ジャカルタからスラバヤへ

  楽しい時間はあっという間に過ぎ、この安全で鹿児島弁の聞ける温かい家を離れなければならない日が来た。

二日間ジャカルタに滞在した私たちは、翌日の午後、1000もあるインドネシアの島のひとつスラバヤに飛ぶために、友人の家を離れた。

 空港では、メールの通知と異なるターミナルから乗ることになっており、フライトは三時間遅れで、飛行機に乗る前から精神的に疲れていた。

しかし、スラバヤの空港でEddyに会って、再会のハグを果たしたとき、すべての疲れが吹っ飛んでしまい、これからはじまる冒険の期待へと変わっていた。 

Eddyとの出会い

  90年生まれのEddyと出会ったのは、大学4年の夏、アメリカを一人旅していたときである

 

カジノの街ラスベガスのホステルで、私たちは出会った。カリフォルニア生まれの彼は、実は親はベトナムに住む華僑で、彼が生まれる前からアメリカに移り住んできた。 

 私たちはホステルで出会ったのち、もうひとりの日本人、しゅうへいさんと共にレッドロックキャニオンに行った。Eddyが運転してくれた。

出会ったばかりの三人だったが、一緒に壮大な景色を見て、大きなアメリカンピザを食べて、距離は一気に縮まった。

そしてまさか、ここインドネシアのスラバヤ島で彼と再会できるとは想像もしていなかった。 

 ここでの彼との出会いが、私の人生にとって忘れられない、大きな一歩になることを、この時はまだ予想もしていなかった。 

 Madura島へようこそ 

 スラバヤから、バス、タクシー、船、そしてまたタクシー、三時間の移動の末に着いたのは彼の働いている学校のあるMadura島。 

 彼は、大学を卒業したあと、このPeace Teachingプログラムに参加し、二年間インドネシアの僻地で英語を教えるというボランティアを行っている。 

Madura島はインドネシアの中でも田舎で、ムスリム色の強いところである。

ジャカルタでは厳しい規定はなかったが、この島では、私たちはこの島のムスリムの文化にのっとって生活をしなければならない。
 

 Eddyに会った最初の夜、彼からここでの様々な文化を教えてもらい、私はただただ驚きながら聞いていた。 

1.       ムスリムの文化では、女性は肌を見せてはいけない。私たちはターバンを巻く必要はないが、この蒸し暑いインドネシアでも長袖長ズボンを着なければならない。 
2.       食事の時や握手の時、必ず右手を差し出さなければならない。インドネシアでは、トイレの時にだけ左手を使う。左利きのわたしでも、間違っても左手で箸を握ってはいけないと肝に銘じた。 

3.       女性と男性は夜一緒に歩いたり、軽いボディタッチもしてはいけない。 

4.       ここでは女性の地位はとても低い。男性社会である。 

5.       その他にも、目上の人に会った時の挨拶の仕方など、初めてのことばかりをEddyに教えてもらった。一日では覚えきれないほど、たくさんの注意事項があった。

 不安を抱えたまま、私たちはホテルで眠りに就いた。インドネシアで泊まる最初で最後のホテルである。明日からはいよいよホームステイの日々が待っている。。。

 学校見学 ムスリムの高校へ

 翌日、5時にEddyがホテルまで迎えに来ると、私たちはホームステイ先の家に荷物を置き、全校朝会に間に合うように学校へと向かった。ムスリムの高校である。

彼はここで英語を教えて10ヶ月。いまでは、学校や近所で会った人みんながEddyに挨拶をしている。 

彼の笑顔は、本当にキラキラとしていて、周りのみんなを自然と笑顔にする。

Nice to meet you !  

全校朝会の前に、私たちは校長室に案内され、校長先生と4人の副校長先生に挨拶をした。私たちは、この学校に来た初めての日本人だそうだ。私たちは、先生の手の甲を手に取り、自分の額にその手の甲を当てた。これはここの挨拶の仕方で、Eddyがするように見よう見まねでやってみた。 

先生方はその手を自分の胸に当てた。学生たちも、Eddyに会って話をする前は必ずEddyの手をとり、自分の額に当てたり、手の甲にキスしたりした。なんと綺麗な挨拶の仕方だろう。私たちは感動した。 

私たちはEddyの担当する授業に一緒に出ることになった。教室に入るとみんなわーっと声を上げた。みんな目をキラキラさせてこっちを見ている。私たちはひとり一人Eddyに紹介してもらった。 

そして、学生から日本について、私たちについて、英語で質問を受けた。彼らの笑顔に、私たちの緊張はなくなっていった。写真を撮ることが大好きな彼らは、私たちと写真を撮りたがり、授業のあとは撮影会になった。なんだか有名人にでもなったようだった。 

もう一人のEddyとの出会い

  お昼は副校長先生たちに誘われて、一緒に食事をした。食事から戻ってくると、次の授業まで時間があり、私たちは語り合った。

  Eddy。ラスベガスで出会ってから三年、私たちはお互い自分たちの道を歩み続けた。私は中国の大学院へ、彼はアメリカを飛び出してインドネシアへ二年間のボランティアに。

 

そんな彼が、異国で奮闘する姿を、アメリカにいたときはまったく想像もできなかった。そして、現在の彼の生活を目の当たりにしたとき、言葉以上に学ぶものがあった。彼の現地での生活、彼の笑顔から、私は言葉では表せないほど、数え切れないものを学んだ。

  彼はこのプログラムから毎月10万円程度の給料をもらっているが、ホームステイ代と交通費を除くと手元にはあまり残らない。彼が、150円のタコスを買うとき、「これは高いから月に一、二回しか買わないんだ。」と言ったとき、思わず胸が痛んだ。アメリカでピザをほうばる彼の姿はいまはもう、過去のものあり、今彼は新しい土地で奮闘しているのだと、実感した。

 
 このプログラムの目的は、インドネシア僻地での英語教育を通して、現地の英語教師をトレーニングすること。

そして、派遣されたアメリカ人が地域に溶け込み、コミュニティに入ることである。

現在インドネアには120人のアメリカ人が僻地でミッションを達成させるために奮闘している。

  私は、Eddyの笑っている顔しか印象にない。
しかし、Eddyの過去の話を聞いたとき、その笑顔の裏にある深い悲しみを知った。


 あるお昼のできごと 

実は、お昼副校長先生と食事に行った際、ある出来事が起こっていた。この出来事は私たち二人の日本人だけでなく、Eddyにとっても大きなショックとなった。

 インドネシアの人たちはみんな陽気で、私たち日本から来た「外国人」を見ると、笑顔で声をかけてくる。

 それは、職員室の先生も、学生も同じだった。副校長先生たちは、私たちと一緒に写真を撮ると、そのまま校長室へと誘った。

 私が、日本の社会と比べると、こちらの人たちはいつも笑顔で、とてもいいですね。と述べると、ちょうどスコールが降り出した。インドネシアは今、雨季である。

 雨が止んだ頃、私たちは先生方の車に乗り込み、近くのファーストフード店へと行った。3人の副校長方は先に注文し、さっとレジから消えた。

 私たちは続いて注文すると、レジの人は「○○いくらです。」と値段を告げた。私たちは振り返った。副校長たちは早々と席に座り、おしゃべりしている。

  まさか、と思った。そう、そのまさかだった。私たちは、自分たちの注文したハンバーガー一つずつだけでなく、副校長方三人の注文したセットの料金も一緒に支払った。

私は、食事に誘われたが、自分の分の会計は自分たちでしようと思っていた。

しかし思いもよらなかったのは、五十過ぎの副校長三人の方々の会計もしなければならなかったことである。

 Eddyは何度か副校長方の方向を振り返ると、失望したように彼らに背を向け、「みんながあなたに笑ってくるけれど、だからといって友達というわけではないんだ。」と言ってお金を支払った。 

 私にはこの副校長たちの行動が理解できなかった。私はトイレを装って席を立つと、Eddyに彼が支払った全額を無理やり手渡した。

そしてEddyと話した。話さずにはいられなかった。Eddyは、「これは決してインドネシアの文化ではないよ。これまで他の先生方と食事に行ったときは、先生方が支払ってくれていた。今回初めて副校長方と食べて、僕も本当にびっくりしているよ。えみたちに不快な思いをさせてごめんね。」 

 席に戻ってきたものの、どうしても笑うことができなかった。親友が、「えみが笑わなかったらEddyが心配するから、笑いなよ。」と言っても、どうしても笑うことができなかった。

副校長方は、何事もなかったように、私たちに日本について様々な質問をしていた。この時のハンバーガーの味を、私は覚えていない。 

沈黙の職員室 

 私たちはまた車に乗り、職員室に戻ってきた。90年代生まれの三人は、沈黙を続けた。そのとき、それを見かねたのか、副校長の一人が入ってきた。そして、彼にお金を手渡した。

  彼は、「僕はすぐに結論に急いでしまうんだ。彼らを誤解してしまっていたのかもしれない。」と言った。

続けて、「彼らは僕を、アメリカから来たお金持ちだと思っている。でも本当は違うのに。」

私たちは、分かっていた。学校から一番近いファーストフード店に副校長方が初めて来たとは思えないし、支払いの先後を知らなかったとも思えない。完全にEddyをはめていたことは分かっていた。だから尚更、悲しくて、悔しかった。 

 私は悲しい顔を隠せなかった。Eddyは、「Dont worry Emi」と言った。私に笑顔がないとき、彼はいつもこう言う。上司に裏切られたEddyが一番辛いのに。 

笑顔の裏の悲しい過去 

 私は、口を開いた。

「私は自分の感情をコントロールできないんだ。嬉しくないとき、悲しいとき、怒っているとき、どうしてもその気持ちを隠すことができないんだ。まるで子供のように、そのままの感情をむき出しにしてしまう。悪い癖ってわかっているのに、何人もの人に注意されているのに、どうしても治すことができないんだ。」 

私はすでに、涙目になっていた。「副校長先生たちのことはもう、気にしていないよ。でも、私はまた自分の感情をむき出しにしてしまった。そのことに、自分自身に悲しくなっているんだよ。」 

 Eddyは静かに私の話を聞いていた。私は続けて話した。 

「そしていまでも後悔しているのは、母の亡くなる一ヶ月前まで、母と、母の病気と向き合うことができなかったこと。。。

私は、母が病気になってから、その現実を認めたくなくて、認めることができなくて、母が入院しているというのに、アメリカやイギリスに行ってしまった。

最後の一ヶ月は上海から戻ってきてそばにいたけれど、それは遅すぎたんだよ。。。

もし過去に戻ることができたら、すべての時間を使って、母のそばにいたい。そして悲しいとき、、、」 

私が涙で言葉に詰まると、Eddyが続けた。 

「悲しいときお母さんを思い出すのでしょう。」「うん。。。悲しいとき、こんなに悲しいことがあったんだよ、ってお母さんに伝えたいのに、今はもういない。そして、お母さんのそばに居れなかった後悔を思い出すと、悲しさがもっともっと大きくなるんだ。」 

 職員室の先生たちはみんな授業に行き、ここには私たち三人しかいなかった。そしてここで、涙が止まらなくなるとは、思ってもいなかった。Eddyは言った。「えみの気持ちは分かるよ。」 
「あなたには分からないよ。」私は言い返した。すると彼は話し始めた。「僕が5歳の時、両親は離婚した。父親が出て行った日から、お母さんは僕のことを殴った。 

高校を卒業するまで、殴り続けた。僕はいま、母を愛しているかわからない。愛せるか分からない。僕は母にさよならを言わずに、アメリカを離れ、インドネシアに来たんだ。」 

 いつも笑顔を絶やさない彼の、その笑顔の裏にこんな過去があったなんて。。。私は、言葉が見つからなかった。

副校長方に裏切られても、彼は笑っていた。

私は彼に聞いた。「なんであなたは、辛い時も笑っていられるの?」

Eddyは言った。

「僕は家族の中で一人だけの男の子なんだ。小さい時からお母さんが、男の子は泣いちゃだめって言ってたんだ。だから僕は、どんな辛い時でも、笑ってきた。」

  Eddyのような人間に出会ったのは、彼のような人間に出会えたことは、私の人生に大きな意味を持たせた。彼の笑顔の奥には、強さがあった。

彼の笑顔の奥には、深い悲しみがあった。そして、周りの人を明るくする彼の笑顔の奥には、優しさがあった。

 ムスリムと同じ屋根の下で 

 私は涙を拭いて、次の英語の授業の教室へと歩きだした。心を割って語り合った私たちは、友情の距離が、ぐっと縮まった気がした。 

 授業が終わると、ホームステイ先の家に帰った。ここはEddyがホームステイしている家で、私たちは空いているもうひとつのゲストルームに泊まらせていただくことになった。

私たちはEddyに習った方法で、お父さんとお母さんの手を取り、自分の額に当てた。

ホストファミリーは最大のおもてなしをしてくれた。

毎回食事の際は食べきれない量の食事が用意された。

ホストファミリーは、Eddyを自分の子供のように可愛がっていた。そしてEddyも、自分の両親のように彼らを信頼していた。

一年足らずでインドネシア語をマスターしてしまったEddyは彼らとのコミュニケーションは全く支障がなかった。

見た目もアジア系のため、インドネシア人に間違えられることさえあった。 ホームステイ生活は、「初めて」の体験ばかりだった。

 まず、ここには水道がない。

手洗い場とお風呂場は同じで、バスタブのようなものがあって、そこに一年中水が貯めてある。その水をすくって、手を洗ったり、体を洗ったりする。トイレも同じく、ご想像通りである。

 そして、外に限らず、女性は家の中でも肌を見せてはいけない。 

お馴染みの長袖長ズボンである。「ホストファミリーの家に行ったらやっと涼しくなれるね。」と期待を寄せていた私たちは甘かった。 

Eddyに注意を受け、お風呂の後も35度の蒸し暑さの中、また完全防御の服に着替えた。さすがに、悲鳴をあげたくなった。

 毎晩5時になると、近所の子供たちがホストファミリーの家に集まってきた。 

ホストブラザーが、アラブ語の聖書を子供たちに読んで聞かせている。

小さい子は三歳ほど、大きい子も10歳程度である。

こんなに小さな時から、聖書を読み、お祈りの仕方を勉強するのだ。

 ISISの無差別テロ、悲しいニュースが続く中で、イスラム教と聞くと身が引ける人が世界中多いのかもしれない。

しかし、この島ではムスリムに生まれ、ムスリムに育っている人たちがいる。
 

彼らは陽気で、笑顔が絶えなくて、一日5回神にお祈りをして、日本のアニメが大好きで、英語が大好きで、、、この島には風俗店もないし、お酒もない。

冗談を言っては笑い、悲しいときは涙を流し、道に迷った私たちを快く助けてくれる人たちがいる。 

 いったいどれほどの人が、イスラム教について、本当に理解しているのだろう。いったいどれほどの人が、知ることをせず、報道に流されて偏見だけが一人歩きしてしまっているのだろう。。。 

ホストファミリーと同じ屋根の下で、笑顔で暮らしている中で、そんなことを考えずにはいられなかった。 

 もうひとつの日本

  私たちが食事のあと、リビングでチェスを楽しんでいると、近所のおばさんが私たち日本から来た「お客さん」を見に来た。

ホームステイに来てから、親戚の人や近所の人など、たくさんの人たちが私たちを見に来られた。 

顔をじーと見ると、「見た目は変わらないねえ~」などといって、日本に関する様々な知っていることを述べては、帰っていっていた。

 しかし、この日のおばあさんはちょっと違った。

遠い親戚だというこのおばあさんは、私たちの横に座ると、日本の歌を歌いだした。戦時中、日本のインドネシア占領時代に歌われていた曲である。おばあさんは、日本軍について語りだした。

 Eddyは、すべてを通訳してくれなかった。私たちに気を遣ってくれていたのだ。しかし私は、加害者としての日本の責任をう発言をする人たちと、何度も話をしたことがある。

それは復旦での授業中でも、南京でもそうであった。だから、歴史を学ぶ学生として、日本人として、気にせずに話をして欲しい、と思った。

 おばあさんはもう一度私たちの両頬にキスをすると、帰っていった。


 出会いと別れ テレマカシー、インドネシア

  あっという間に、インドネシアを離れる日が来てしまった。

お世話になったホストファミリーと、そして尊敬する友人Eddyと別れなければならない日がとうとう来てしまったのだ。 

文化のあまりの違いと、初めてのインドネシアの家庭での生活、新しい食べ物。慣れないことばかりで、一日目から「帰りたい、、、」と思ってしまったが、いまではもっとここに居たい。もっとインドネシアを、イスラム教を、ムスリムを、そして最高の友達Eddyを理解したいと思った。 

 テレビやインターネットですぐに手に入る情報。それらはときに、片面のものであって、本当にその目で確かめなければ、真実の姿は見ることができない。 

私はいま、頭にスカーフを巻いたムスリムの人たちを目にすると、全く違和感を感じない。

それどころか、親近感さえ生じる。彼女たちをみると、インドネシアで、最後まで私たちに大きく手を振ってくれたムスリムの学生の顔が目に浮かばずにはいられないから。

 ホストファミリーの優しい笑顔が、目に浮かばずにはいられないから。そしてこの土地で頑張る親友Eddyの姿が目に浮かんでくるから。。。 

 インドネシアMadura島、この島で過ごした日々を忘れることができない。 

 




英未東南アジア平和之旅 第3章 ベトナム、シンガポール

       ―ベトナム戦争博物館―

 カンボジアからベトナムへの国境越えは、スムーズに行われた。タイ、カンボジアに続く三カ国目に到着した。ここでの目的は、ベトナム戦争博物館に行くことである。 

 ホーチミン市内にバスで降りたとき、その交通量の多さにとにかく驚いた。バイクの海。道路を渡るのは至難の業で、車とバイクの間をすり抜けて歩く。中国で慣れていると思っていたのは大間違いで、中国とは比べ物にならないほどのバイクの数であった。

  この交通事情に圧倒された私たちは、外へ出る気すらなくしてしまった。

一歩間違えば、命の危険がある。しかし、学んだのは、現地の人に付いて道路を渡れば、うまく横断することができるということである。

人だけでなく、車の後ろについて道路を渡ることもやってみた。

車の後ろにくっついて走ることで、とりあえずは前後左右から来るバイクからは身を守ることができた。

しかしむろんのこと、スピードと反射神経のいる行動ではある。

 生まれて初めて食べたベトナム料理の味も忘れることができない。

材料を切っただけの、これから調理する食材が並べられ、そうめんの塊のようなものと一緒に、酢のようなものを付けて食べる。最初は食べ方すら分からずにキョロキョロしていると、両サイドの親切なベトナム人の方々がどのようにして食べるのか教えてくれた。

現地の人と一緒に笑い合いながら、こんなに楽しく食事をしたのは久しぶりだった。

 

 ベトナム戦争博物館

 

 一日目に、ホーチミン市内を観光し、 半日の時間を使ってベトナム戦争博物 館を見学した。

ベトナム戦争で使われた枯葉剤によって、ベトナム市民のみならず、アメリカ軍兵士にも大きな後遺症を残した。

その後遺症のせいで戦争から帰国したアメリカ兵の子供の中には、先天的に右手がなかった。

ベトナム市民から生まれた子供は何代にも渡ってその後遺症に苦しめられた。


そして、無脳症の赤ん坊の写真を見たとき、私は胸が張り裂けそうな思いになった。高校生のころ、学校の図書館で見たイラク戦争の写真集、そのなかで見つけた無脳症の赤ちゃんを思い出さずにはいられなかった。

「この子が一体どんな罪を犯したというのだろう。」

「なぜ戦争はこんなにも残酷に命を切り刻み、ずたずたにして、奪うのだろう」。。。
その時から、戦争に対する怒りと憎しみ、平和に対する危惧を抱いたことを今でも鮮明に覚えている。
 
カンボジアの《キリング・フィールド》から《ベトナム戦争記念館》までの時間は、辛く苦しい見学だった。

しかしこの貴重な時間のおかげでわたしは、しかと戦争の恐ろしさと残酷さをこの目で見た。

そして、これから平和学をとおして、しっかりと戦争と向き合わなければならないと心に誓った。



 新しい寝床と新しい出会い

 

 私たちは、より良い「ホステル」を目指してホーチミンの繁華街を歩いていた。バックパッカーにとって、寝床はとても重要で、安さ、快適さ、すべて条件の良いところを探すことはとても大事な仕事なである。

また、これまで半月の間、旅をしてきて、様々なホステルを経験し、要求も少し高くなってきたように思う。

 

 明日泊まるホステルがなかなか見つからないなかで当てもなく歩いていると、三人の欧米人がホテルらしきところに入っていった。

おばあさんが門番をしているところに、私たちも吸い込まれるように入っていった。

わたしは、「ここに泊まることができますか?」と聞いた。

すると、―あとで知ったのだけど―おばあさんの孫のカイ君が出てきた。英語の話せる彼は聞くところによると、現在、ニュージーランドのオークランド大学に留学しており、冬休みのためベトナムに帰国して、祖母の経営するホテルを手伝っているのだという。

 

私たちが日本から来たことを知ると、彼はとても親切に話しかけてくれた。

部屋に案内され、気にいった私たちは明日からこのホテルに泊まることに決めた。

キッチンのついた大きな部屋に、一泊2000円で泊まることができる。二人で割るとひとり当たりたったの1000円である。

 

 フロントのソファーに座りながら、私たち三人はお互いに自己紹介をして会話を楽しんだ。

ベトナムに来たものの、この国の事情や物価について、全く知識のなかった私たちは、このカイ君のお陰で随分たくさんのことを教えてもらった。

 

私たちがホーチミンに3日間滞在する予定だというと、「それはもったいないよ。ホーチミンは一日で観光できるよ。」といい、ツアーコンダクターを紹介してくれた。

ひとり30ドル程度で、一泊二日の観光ツアーである。何も予定の決まってなかった私たちは、なんのためらいもなく申し込んだ。それが日本人は3人だけという欧米人ツアーであることも知らずに。。。

 インターナショナル・ツアー



翌日、フランスパンの朝ごはんを食べながら、私たちは集合場所についた。

バスに乗り込むとすぐに、自分たちが完全に少数派であることに気づいた。

周りはすべて、ヨーロッパもしくは北アメリカから来た旅行客。アジア人は私たちふたりと、日本人の退職後に旅行に来ている方三人だけだった。

  私たちは空いていたバスの一番前の席に座った。これから始まる一泊二日のツアーにワクワクしていた。

何より、これまですべて自分たちで計画し、自分たちで公共機関を利用して移動し、食事から宿まですべて手配していた私たちにとって、ツアーほど楽なものはなかった。バスも食事も宿もなにも心配する必要がないからだ。

 ガイドのすぎちゃんはベトナム人で、英語が達者でユーモアあふれる人だった。

ギター片手に歌ったり、どこに着いてもその場所の説明をペラペラと始めた。ものすごいノリの良さに、私たちは随いていくのに必死だった。

 このツアーで出会ったひと達のことが今はとても懐かしい。

 

カナダ人のEzzyはトロント大学歴史学部を卒業後、パートナーと企業し、現在は8ヶ月間、東南アジアで転々と働きながら旅行している。

スペイン人のカトリーナは小学校の先生になるのが夢で、現在大学で修士課程を履修しながら学校で働いている。

スロバキア人のケイティはギリシャで働き、そこで現在のボーイフレンドであるカナダ人のと出会った。

ポルトガル人のアリーシャはなんと復旦大学の横の同大学で前学期中国語を学んでいたという。世界は広いようで、狭いものだ。

 ツアーに参加していた人たちはみんなフレンドリーで、いつのまにか団体意識も生まれて、写真を取り合ったり、船に乗る時に手を取り合ったりと助け合った。

肌の色、母国語、年齢なんて関係なかった。ホテルについてからも自由行動の時間には同じ階に住む6人みんなで食事に行った。

バックグラウンドも、将来の目標も違うみんなだったが一緒にベトナムの町を歩き、一緒に食事をして、一緒に笑いあった。

 FaceBookを交換して、私たちはこのツアーを後にした。

次の駅は、物語のあふれるインドネシアである。

  

一時間だけのシンガポール

 

 ベトナムからインドネシアへ飛ぶために、乗り継 ぎで1時間だけシンガポールにいた。

シンガポール については、台湾に飛ぶ際に一晩泊まっているた め、そこで詳しく触れたい。

  実はベトナムの最後の晩、最後の晩餐をしている と、一通のメールが入っていることに気づいた。
それは、ホーチミンからインドネシア・ジャカルタ行きの便のキャンセルの通知だった。

「大変申し訳ございませんが、」で始まる文章をすべて読み終わる前に、私たちは「まずい。。。」と思った。チェックインの時間まで、9時間を切っていた。
 

 親友はすぐに日本のジェットスターに国際電話をかけたが、日本時間で夜9時を5分過ぎており、繋がらなかった。

そのあと中国語のアナウンスが流れたときに、
彼女はハッと私の顔を見た。

私がキョトンとしていると、賢い彼女は私にこう言った。「ちょろげ、中国なら時差が一時間あるから、まだ問い合わせができるよ。」ちょろげというのは、私の小学校時代のあだ名である。

いまではこう呼んでくれる友達も少なくなってしまった。

 私たちは今度は中国のジェットスターに国際電話をかけた。通じた。長らく話していなかった中国語が、ここで役に立つとは思ってもいなかった。

私たちは、キャンセルされた便の一本前の710分発シンガポール経由ジャカルタ行きの便に変更した。

 あの時対応してくれた中国人スタッフの優しさと根気強さに大変感謝している。こうして私たちは無事に、翌日ジャカルタへと飛ぶことになる。




    英未EMI東南アジア平和之旅2016第二章

       親友とのセンチメンタルジャーニー

 カンボジアの10日間

 初めての陸地からの国境越えは、私たちの緊張をよそに意外とスムーズに行われた。

しかし、バスから降り30メートルほど歩いて、またバスに乗り込み今度は荷物をすべて持ってバスを降りて出国手続きを行はなければならず、出国と入国とで三回バスを乗り降りした。その度にバスからはぐれないように必死だった。

 約10時間後、いよいよカンボジア第二の都市シェムリアップに着いた。



クメール語で書かれた看板は予想もつかないほど内容が読めない。

しかしこの都市は観光地であるため、街の商売人はほとんど簡単な英語を話すことができる。

 私たちは一日目のバスにTukTukと呼ばれるこちらのタクシーで移動した。

このTukTukは、現地では外国人の重要な移動手段となっている。

運転手は、私たち外国人を見るたびに、「heyTukTuk?」と聞いてくる。

この誘いがあまりにもしつこいので、外国人はそのうちこの誘いに嫌気がさしてくる。



NoTukTuk today and tomorrow」と書かれたTシャツを見かけたときは、思わず笑いが止まらなくなってしまった。

私たち以外の外国人もみんなこの誘いに呆れてしまっていること、そしてこのTシャツを売っているカンボジア人もそれを自覚していること、半分ちょっかいを出すつもりで私たちに声をかけているのだと思うと、呆れて、そしておかしくなってしまった。

 TukTukはさておき、いよいよカンボジアに来た。

オーストラリアと日本のNGOを見学するという大きな任務が待ち構えているこの国で、気を引き締めていこう!と決めた。

 

  カンボジアで活躍する日本のNGO

 

 カンボジア到着二日目、カンボジアで教育支援、技術提供を行っている日本のNGOJVCを訪問した。

 

 シェムリアップからバスで一時間のコンポンクディ。

 シェムリアップが観光地であるのに比べ、ここは一人 の外国人も見かけないほどのCountry Sideであっ た。私たちは寝ぼけたまま、バスを降り、バイクの後 ろに乗せていただき、事務所へと移動した。

 

 インターンシップ中の石川さんに活動内容について説
 明していただき、お昼は近くの屋台で地元の人たちに紛れて食事をした。三人で食べて、ひとり1,5ドル程度だった。

お昼休みに、JVCカンボジア事務所で働いているスタッフの一人のかたの家にお邪魔させていただくことになった。バイクでゆっくり走り、20分程度のところである。

この家庭訪問は私たちを驚かせた。家は木材で作られていて、去年の夏中国でボランティアをしたときの家と同じようだった。私たちが到着すると、おじさんが30メートル程もあるヤシの木にスイスイ登っていって、私たちに搾りたての椰子の木ジュースをご馳走してくれた。親戚の女の子は20歳で、元気な女の子を出産したばかりだった。

ここは、とにかく子沢山で、横たわっている犬には6匹の子犬たちが一生懸命しがみついてミルクを飲んでいた。

その姿に見とれていると、今度は鶏の親とその後ろをついてくる沢山のひよこたちが見えた。

ここでは、犬も鳥も共存している。

人間同士は様々な派閥が生まれ摩擦が生まれる。ときに人間は動物にも優らないのかもしれない、とふと思った。

午後は小学校を訪問した。

子供達は私たちを最初は別の惑星から来た人たちの ように興味津々な顔で見つめていた。

しかし、授業の休み時間に教室に入り、カメラを出 すと嬉しそうにレンズに入ってきた。

私たちは一緒に写真を撮ることで、異国の壁を溶か していった。

この学校では、日本から肉や魚などのフレークの缶 詰、そしてUSAから小麦が送られてきている。

そして毎日近くに住む人たちがボランティアで朝食
を作り、子供たちに無料の朝食を提供している。

元気な子供達に大きく手を振り、私たちは最初の小学校を後にした。

Emmaとの再会

 

いよいよ、CPCS(Centre for Peace and Conflict Studies)の事務所を訪問する日が来た。

スタッフのメーガンがホステルまでTukTukで迎えに来てくれ、ひとつひとつ複雑な事務所を案内してくれた。

そして会議が終わったころに南京大学で出会ったEmmaにここカンボジアのシェムリアップで再会を果たしたのだ。

Emmaと大きなハグをしたあと、エマは私たちに今後のカンボジアでの平和の旅をコーディネートしてくれた。

それは北朝鮮の方々が投資して設立したアンコールワット博物館と、シェムリアップのキリング・フィールドであった。

翌日は日本の地雷撤去団体CMCを訪問することになっていたので、翌々日にEmmaとランチを共にすることを約束して事務所を後にした。

 

日本の地雷撤去NGOCMC訪問

 

カンボジアのバッタンバンはタイとの国境線まで2キロの距離にあり、カンボジアの中でもまだ地雷の撤去されていない地域である。

バイクで一本道を走っていくと、あたり一面綺麗に整えられたただっ広い土地が見える。

そこは地雷撤去がすでに終わったところであり痩せた牛が草を食べている姿を見かけた。

私たちはまず、地雷被害者宅を訪問した。

 

ボイスレコーダーを準備し、わたしが日本語で質問をして、それをCMCスタッフの松元さんが英語に訳し、それをCMCのカンボジア人スタッフがクメール語に訳す。

質問は、センシティブなものもあったかもしれないがどれもしっかりと生の声を聞くことができた。

 

地雷被害者のVirさんは反政府軍として軍隊に入り、銃を持って森の中に入った時に地雷を踏んでしまった。そして左足を奪われた。

1995年、23歳の時である。現在は三人の子供の父親で奥さんが町へ出稼ぎに行きVirさんは家事を行っている。30分のインタビューの最後に、わたしはVirさんの「希望」を訪ねた。

すると、「いまは、たとえ敵でも見方でも、誰にも地雷を踏んで欲しくない。そして一日も早く、地雷を全て撤去してほしい。」と語ってくれた。

また、自分自身については、「息子に大学を出て欲しい。」と希望を語った。カンボジアでは、村の出身で大学を出られるのは一割にも満たない。二人の息子には自分らしく生きてほしいという願いを語ってくれた。

 

Emmaの言葉 平和(自分)と向き合うこと

 

 翌日の午前中、CPCSの事務所に行って、平和に関する本を読みあさった。

ここには、平和に関する本しかない。普段英語の読解は得意ではないが、自分の一番興味のあるこの分野の本は、何時間でも見ていられる気がした。

 あっという間にお昼になり、仕事を終えたEmmaが降りてきた。

Emmaの車に乗り込むと、カンボジア料理のおいしいレストランに連れて行かれた。

Emmaは、オーストラリアで修士課程を終えたのち、カンボジアに渡り、まずはボランティアから始めた。

 

 ゼロからのスタートだった。そして、18年経った現在は、カンボ ジアに在住し、クメール語を習得し、カンボジア人の夫を持ち、カ ンボジアで平和を作るNGOを運営している。

 私は、Emmaに自分の夢と、そして達成できていない目標につい て相談した。

 私の顔は暗かった。

 奨学金をもらって中国に留学しているのに何一つ貢献を果たせてい ない、と。

 Emmaは私の話をゆっくり聞いてくれた。

 そして、こう言った。

 「Emi、あなたは南京大学で平和学を学ぶことを選んだ。あなたは

、冬休み日本に帰らずにここカンボジアに来ることを選んだ。そして、あなたは平和学を学ぶことを選んだ。だからわたしはあなたがここに来ることを受け入れたのよ。あなたはもう、自分の進む道は心の中で分かっているはず。」

 

最初はEmmaの言葉を消化することができなかった。しかしこの言葉は、インドネシアまで来て、やっと理解し納得することが出来ることになる。

 この先の旅にも不安が募っていたわたしに、Emmaの言葉は私に勇気をくれた。

私たちが、これから行くジャカルタでテロが起きたことに触れると、Emmaは、「世界は広いのよ。あなたたちがテロに遭う確率は、ここで交通事故に遭う確率よりはるかに低いわ。」と笑顔で言った。

たしかにそんな気がしてきた。恐れていたら前に進むことができない。

 Emmaと大きなハグをして再会を誓い、私たちはシェムリアップを離れた。

 

 二日間の合宿

 翌早朝、私たちはEmmaの夫Nyanの車に揺られていた。

シェムリアップから3時間のバッタンボーンに向かうためだ。

2週間の旅の疲れが溜まっていたのか、連日の早起きで疲れたのか、車に乗っている間ふたりともずっと寝てしまっていた。

 着いた先は、CPCSの建てた小中学校。

ここでは地元の学生が通い、また世界中からボランティアで学生が来る。

私たちが行ったときはちょうど台湾からの学生がここで英語を教えるボランティアを行っていた。

 私たちは、学校の真向かいにあるバンガローに泊まることになった。

ここで二日間カンボジアの学生、そして台湾の学生と交流することになる。

 台湾の学生は笑顔で日本から来た私たちを歓迎してくれた。

 

私たちは、木のテーブルを作ったり子供達と一緒にカンボジアの伝統楽器を弾いたりして交流した。

 夜バンガローに戻ってくると、問題は起こった。

シャワーが出ない。。。子供達と泥だらけになってサッカーをした後に、シャワーを浴びないという選択肢はなかった。しかし、どこをどうひねっても浴室のシャワーは水一滴出ない。

私はトイレのところまで歩く。便器の横にシャワーのようなものを見つけた。手に取ると水が勢いよく吹き出した。

私は親友のまこに相談した。

「このシャワーって、便器の横にあるけど、何のために使うと思う?」もちろん、聞きながら自分でも薄々分かっていた。

東南アジアの大部分の地域ではトイレットペーパーを使うという習慣がない。

その代わりに、便器の横にこのシャワーが設置してある。

私はこのシャワーを握り締め、ためらっていた。 全てを忘れて、無になって、私はシャワーを浴びた。

人々がこのシャワーを使って何をするか、この水がどこから来たのか、気にしない。

ただ、心を無にしてシャワーを浴びた。人生で初めての試みだった。

 二日間の合宿は、短い時間だったが私たちを強くした。

 

テレビもWifiもシャワーもないバンガローでの生活。食事は40人もの台湾からの学生と分け合って食べ、鶏のコケコッコーの声で目覚め星が出るころに眠りに就いた。ここは星がとても綺麗だった。

 

 最終日に私が中国語で台湾の学生と話し始めると、彼らはとても驚いていた。これまでは彼らに合わせて英語で会話をしていた。しかし、中国語で話すことでやはり距離がかなり縮まった。。。。

 いよいよバスでカンボジア首都プノンペンに行くときが来た。

プノンペンの虐殺記念館、キリング・フィールド

 プノンペンについたのはたしか、夜だった。日が暮れて、ライトアップされた看板がやけに目立った。日本のCANONPanasonic、中国銀行など日系、中国系企業を見つけると嬉しくなった。遠いカンボジアにいるのに、日本や中国が近いように思えた。

 

 翌日からさっそく、プノンペンに来た目的であるキリング・フィールドを訪れた。入口で日本語のガイドの流れるイヤホーンをもらうと、それをつけて回った。全部で30箇所以上の見学スポットがあり、すべての解説を聞いて回ったころには2時間以上経っていた。

 

 1975年、ポルポト政府は革命を開始した。

都市部に住む人々を農村部に移動させ、過酷な労働を強いた。ポルポトは、農業こそ国家の基礎であり、非常に重要であると考えていた。そしてその他の職業に就くものは全て革命の邪魔者だと考えていた。

そこでポルポトは、医師や教師、弁護士などの職業に就く人たちを片っ端から捕まえて、拷問の末殺した。

それだけでなく、メガネをかけたひと、手の綺麗なひとなど、信じられないが、本当にそれだけの理由で人々を捕まえ、キリング・フィールドへと送った。

このジェノサイドの亡くなった人々の数は200万人、当時の人口の4人にひとりである。

 キリング・フィールドを見学する人々はみな無言で、悲しい表情をして、一歩一歩歩いていた。

あまりにも残酷な現実が目の前にあり、まるで自分がタイムスリップしてそこにいるかのような錯覚まで抱いた。

当時の骨や、被害者の衣服、穴の空いた頭蓋骨など、それらを見るたびに、何とも言えない感情がこみ上げてくる。ここで、カンボジア人が、カンボジア人を、殺したのだ。

血の関係を断つために子供も容赦なく殺した。どこか見覚えのある光景は南京大虐殺を思い出させた。

 『英未東南アジア平和之旅』と自分なりのタイトルをつけて旅したこの6カ国。

私が見てきたのは東南アジアの様々な国の戦争の歴史と、平和をもとめて活躍する人々、そして現在の日本の姿だった。


このあとに旅するベトナムで学んだベトナム戦争の歴史、インドネシアでホームステイ中に、ホストファミリーから聞いた「かつての日本の姿」。

日本人にとって「被害者」の日本は、東南アジアでは間違いなく「加害者」であった。しかし、それらの国で活躍する日本のNGO団体や日本人の方々の生の姿は、私に力強い希望を与えてくれた。

 

 中国で「歴史學」を学ぶ学生として、ひとりでは持ちきれないほどの戦争責任と深い悲しみの心を養った。

 

それは南京大学での一学期だけでも、抱えきれないものだった。しかし、現地の人々の優しさと寛大な心は、わたしに前に進む勇気をくれた。「前事不忘后事之」過去のことを忘れずに、未来の糧にすること。

 

歴史を学ぶのは難しい。しかし、私はひとりではないということ。国籍を越えたこんなにもたくさんの人たちが、私のことを支えてくださっているのだということを心から感じた。

 

PS.カンボジアには十日間滞在した。たくさんの人との出会いがあり、たくさんの物語が生まれた。

ここでは、すべてを書く事ができない。しかし間違いなく、ここで、たくさんの奇跡が生まれた。

ありがとう、カンボジア。

 

 次回、プノンペンからベトナム、ホーチミンへ。    第二章終り      EMI

 


    英未EMI東南アジア平和之旅2016 第一章

   ―親友とのメモリアルジャーニー

 一ヶ月間の東南アジアでの修行を終えて、空っぽの大学に帰ってきた。17日に出発してから、27日に上海に帰国するまで、丸々一ヶ月間、わたしは大の親友とふたりで東南アジアを旅した。

一ヶ月で、タイ、カンボジア、ベトナム、シンガポール、インドネシア、台湾の6ヵ国を周った。節約のため、陸続きのところは陸を渡った。初めて陸からの国境越へだった。そして初めて「ことば」の分からない国に入った。

そして言語は通じなくても、気持ちは伝わることが分かった。初めてムスリムの文化を体験した。

そして、友情に国籍や民族は関係ないのだということを確認した。

書ききれない思い出が、わたしの記憶の中にある。

その思い出のひとつひとつを、書き出すことは難しすぎるが、いまこの場を借りて、思い返したいと思う。

忘れてしまわないうちに・・・・・・。 

 旅のはじまり

 全ては、前学期、南京大学で平和学を学びに行ったことにはじまる。

南大で平和トレーニングに参加した際、カンボジアで平和NGOを運営しているオーストラリアのEmmaに出会った。

その活動を聞き、私はぜひカンボジアに実際に行って、彼らのNGO活動を目で見てみたいと思った。劉成先生にお願いをして一緒に食事をする機会をいただき、わたしの熱意を伝えた。

答えは、「Welcome!」だった。

 カンボジアに行けることが決まったところ、論文の構成発表があった。振り出しに戻ったわたしはがっかりを隠しきれなかった。

そして、本気で論文に取り組まなければ卒業が危ないということを友人から促された。その前にタイの観光地でテロが起こり、パリでテロが行われたニュースで世界は緊迫していた。

わたしは中国を出るのが怖くなった。「これから行く先の国々でテロにあったらどうしよう。。。」

わたしは、Emmaに再び連絡をした。それは、カンボジア行きを取り消したいという内容だった。

 自分の安全を確保したわたしは、南京で残りの生 活を充実させようと思っていた。

その矢先、親友から連絡があった。


「チケット取った?」わたしは、カンボジアに行くと決めたその日に親友に連絡をしていたことをすっかりと忘れてしまっていた。

私が行かなくなったことを告げると、彼女はがっかりを隠しきれないようだった。

それからというもの、3日に一回連絡が来た。

「本当に行かないの?それでいいの?」

仕事を辞めてニュージーランドに留学している彼女にとって、新しい仕事に就く前に行くつもりだった東南アジア旅行は、大きな意味を持っていた。 

「もう長期休みは取れないから、これが人生最後の旅行になるんだよ。」

その言葉に、私はドキっとした。彼女は、11歳からの大親友である。自分から言い出した東南アジア旅行。

そして自分から断ってしまった彼女の人生最後の旅行。。。私は、大の親友を振り切ってしまった。

 

「まこ、いま世界は前みたいに安全じゃないんだよ。それに論文が書けないと卒業できないんだ。本当に今回は、いけないんだ。お願いだから、諦めてくれないかな。」

私がこうメールで伝えて突き放してしまったとき、彼女がどんなに私に対して失望したのか計り知れない。しかしその時の私は意気地なしで、この安全な上海の寮から出て、冒険に出る勇気が全くなかった。 

 それからしばらく親友からの連絡がなくなった。やれやれ、と肩を下ろせるかと思いきや、それからというもの、彼女の言葉だけが頭をよぎっていた。「人生最後の旅行」「今しかチャンスがない」。。。

ぬるま湯に浸っている生活に慣れてしまっていた私は、外に出ることが完全に怖くなっていた。そして、これまで南京にいた私は、上海で腰を下ろしたい、上海からこの不安定な世界に飛び立ちたくなんかない、と思っていた。しかし、友情の力はその不安に打ち勝つものだった。


 私は、気がついたとき、タイ・バンコク行きのチケットを買っていた。時間も、宿も、何も考慮に入れないで、ただ一番最初に目に入った航空券を買った。私は、自分の気が変わってしまうのが怖かった。明日にはまた「行きたくない」と言い出すことがわかっている自分に、諦める機会を二度と与えないために、キャンセル・変更不可のチケットを買った。深夜1時を回っていた。。。

 

不安な日々

 

 チケットをとってすぐ、私は親友に連絡した。もうすっかり行けないのだと思っていた彼女は、一人でオーストラリアを旅行する準備を始めていた。彼女は自分の取ったオーストラリア行きのフライトをキャンセルし、代わりにタイ行きのチケットを取り直した。私とタイで合流するためである。

 荷物は一ヶ月も前からすでにリュックに詰めていた。友人に出発の日を伝えた。換金に行き、タイのバーツを初めて手にした。旅行の準備は整った。整っていないのは、私の心の準備だけだった。。。

 チケットは取り、最初の目的地も決まったものの、テロに対する不安や、初めて言語の通じない国に行く不安、は拭うことができなかった。それどころか、出発の日にちが近づく度に、「行きたくない、、、」という思いが強くなった。「タイでまたテロが発生したらどうしよう。。。カンボジアで地雷を踏んでしまったらどうしよう。財布を取られたらどうしよう。それに論文。。。。」

 

 不安はいくらでもあった。おまけに、私が先に断っため、出発の時間を相談することができず、親友より一週間早くタイに着くことになってしまった。初めての国に、一人で入国する。。。

 そんな不安は、出発当日までかき消すことはできなかった。わたしは、中国で仲の良い友達に、出発前の自分の素直な気持ちを伝えた。「怖いけど、行くしかないみたい。」友人たちは、「必ず生きて帰ってきてね。」と私に伝えた。いまでは大げさだと思われるかもしれないが、本当にそのときは、「生きて帰ってくること」が最大の目標だった。

 

 出発の朝

 時間も見ずにチケットを買った私は、朝710分上海発、バンコク行きの飛行機に乗るために、朝4時に大学の寮を出た。タクシーの窓から外を見ながら、旅に出ている自分を想像した。そして、ありとあらゆる起こりうる危険を想像しては、ぞっとしていた。


そんな私の不安の表情を見たタクシーの運転手のおじさんは、私に声をかけた。

「そんな不安そうな顔をしてどこに行くの?」わたしは、これからの旅の大体の日程と、私が抱えている、起こり得りそうな危険を次々に述べていった。

おじさんは、「あなたは本当に勇気があるね。大丈夫だよ。あなたはきっと生きて帰ってくる。」この運転手さんとの会話の中で、不安がなくなったといえば、嘘になる。

しかし、空港に到着し、トランクから大きなリュックを下ろすとき、おじさんからもらった言葉は、わたしの背中を強く押した。

 「あなたが帰ってきたら、僕がまたここに迎えに来るよ。だから必ず帰っておいで。」

 

まだ帰りのチケットも買っていない私にとって、いつ上海に戻って来れるか、そのときは分からなかった。しかし、おじさんの温かい言葉に、わたしは必ず上海に帰ってこよう、帰って来たい、と誓った。

 サワディカ~ タイ 

 格安航空AsianAirでは、機内食どころか、水一滴提供されない。深夜から行動を始めていたわたしは、4時間半のフライトで空腹と戦っていた。

 冬の中国から、常夏のタイに着くと、飛行機を降りた瞬間ムッとした熱気が身体にかかった。上海から来たお客さんたちはみんな一斉にコートを脱いだ。

 わたしはリュックを背負い直し、予約したバックパッカーのホテルへと向かった。バンコクでは地下鉄やMRTが通っており、移動はとても便利である。電車の中からバンコク市内を見下ろしたとき、その都会の程に上海を思い出した。

 バックパッカーのホステルを予約した際、メールで連絡を取っていたのは日本人スタッフの千代さんである。千代さんから送っていただいた住所を照らし合わせ、やっとホステルに着いたのは、午前11時前だった。

 後に述べるが、この旅で最初に泊まったこのホステルは、環境、人との出会い共に素晴らしいものだった。

 チェックインを済ませると、まずはお腹を満たすために私はカメラ片手に街を歩きだした。

 

バンコク市内から6駅ほど離れたこの町は、忙しい市内とは打って変わって、静かな街並みが広がっていた。

道ばたでものを売る人、バス停でお昼寝をしているひと、まるで時間が止まっているようだった。そしてテレビで見たような戦後の日本の下町のようにも見えた。

 がっかりと喜びと

 

 夕方から、タイの市内をゆっくり見て回ることにした。そして気がついたのは、バンコクの市内は上海と変わらないほど都会だということである。タイと言えば、勝手に、畑仕事をする人々と、緑の大地を想像していた私は、思わずがっかりしてしまった。バンコクは、凄まじいスピードで発展を遂げていた。

 ホステルに戻ると、日本人スタッフの千代さんとお話をした。なぜ私がここに来たのか、これからどのように旅を進めていくのか、話しながら自分にも言い聞かせていた。

千代さんはタイに来て一年、現在は日系企業で働きつつ、このホステルでお手伝いをしている。上海から遠く離れたこの土地で素敵な出会いがあった。

 

 二日目は、ホステルで出会った日本人の、ヒロと一緒に観光をした。朝市やバンコク市内の観光地を回った。三日目、一人でタイの宮殿に出かけた。


入り口を入るとあたり一面金色の世界に、ただただ口を開けて見ていた。世界中から観光客の集まるここTemple of the Emerald Buddha

 この宮殿には、服装規定があり、膝の見える服など露出の多い服では入ることができない。そしてこの宮殿の中では、様々な言語が飛び交い、様々な民族の人たちが笑い合っている。



そんな光景を目にし、その人たちの来ている身なりや雰囲気の違いで、彼らの様々なバックグラウンドを考えていた。

「この人はきっとお金持ちなんだろうな」「この子は両親とツアーで来たのかな」・・時より、人々の渦に飲まれながら、「人間たちは生まれる場所が違うだけでこんなにも違う人生を歩むのかと」、ため息をついた。

 

宮殿の中心、仏様のいらっしゃるところは、撮影禁止で、また裸足で入らなければならない。世界中から来た観光客が次々と中に入っていく。外のざわめきが一瞬止み、人々は静寂の中にいた。

そして彼らは、仏様の前で膝をつき、祈りを捧げる。様々な宗教、様々な民族の人たちが一点を向いて祈りを捧げている。その光景にただ、感動した。

裸足になった私は、神の前では人はみな、平等なのだと、心から思った瞬間であった。

Ayutthaya

 

ホステルで出会った日本人の先輩方にアドバイスをいただき、一人でアユタヤに行くことにした。

親友の到着まであと3日間もある。私はこの大都会よりも、田舎のタイの姿を見たかった。そしてわたしは、この国で最初の世界遺産と出会うことになる。

アユタヤまではバンコクから列車で3時間。ガイドブックや、街の人たちからは一時間半で着くよ、と言われたけど、列車はゆっくりと進み、各駅で10分程度ずつ止まる。そのため実際のところ、二倍の時間がかかるようである。

見つけたホステルは一人部屋で、一泊1000円未満で泊まることができる。チェックインを済ませると、さっそく外に出かけた。

自転車をレンタルした。復旦で自転車通学している私は、水を得た魚のように嬉しくなり、一本道をハイスピードで走り抜けた。10分ほど走ると、アユタヤ古代遺跡の入り口についた。

テレビで見たことのある、人から聞いたことのある、しかし実際に自分の目で見たことのない、そんな光景を初めて目にしたとき、感動で胸が熱くなった。



歴史学部にいながら、歴史が嫌いになってしまっていたわたしは、歴史を学ぶ素晴らしさをこの目で確かめた。とくに、木の幹の中にすっぽりと埋もれてしまったお釈迦様の顔を拝見したとき、膝をついてうっとりとその姿を眺めていた。今私は、古代遺跡の町、アユタヤにいるのだ。

私と女の子とワニと

 

アユタヤには、二日間滞在した。金銭的に余裕がなかった私は、ご飯は毎食150円程度で済ませた。疲れて帰ってきては夕食を省いた。食べ物に対して執着のない私は、何を食べてもおいしいと思えるのは、日本にいたときからである。そして旅の間、美食よりも目の前の景色の方が魅力的だった。

二日目の朝、自転車に乗って広い公園を駆け抜けた。四方八方どこを見ても遺跡。


観光地なのにいつも人の少ないアユタヤは、静かな雰囲気がどこまでも広がっている。

その遺跡をぼんやりと眺めながら、紀元前を生きた人たちの生活を想像していた。想像を膨らませていると、彼らは今にも蘇ってくるような、そんな気がした。

お腹がすくと、屋台が出てくる4時頃に生春巻きとグァバフルーツを買って、池の淵に座り、それを頬張った。遺跡の残る公園で古へ思いを馳せながら食事をする、私にとって至福の、贅沢の時である。

するとその時、わたしの座っているちょうど正面の反対側の岸でバシャッと音がした。何かが動いた。何か大きなものが口を広げて、閉じたようである。

そう、ワニだ!私は食べかけの春巻きを持って直ちに池を離れた。野生のワニを見たのは生まれて初めてである。そして、もしワニが現れたのが反対側でなく、こちら側であったら、生春巻きをアユタヤで食べたばっかりに、命の危険を負うことになっただろうと思い、ぞっとした。

ホステルに帰ると、インターネットをするために一階のテラスに降りた。

毎日の日課である日記を書いていると、女の子が近寄ってきた。

まだ三歳くらいのようだ。

彼女はわたしにビーズの玉を見せてきて、わっと広げて見せた。

するとビーズたちはあたり一面に広がった。わたしが唖然としていると、彼女は嬉しそうにわたしにニコッと笑い、そのビーズを拾い出した。

引き続き日記を書いていると、女の子はわたしの手をとって、手のひらに拾い集めたビーズを載せだした。彼女はわたしにもビーズを一緒に拾うように合図し、私も彼女と一緒になって床に散らばったビーズを集めだした。

後からこの女の子は、このホステルを経営している女性の娘さんだということが分かった。オーナーは女の子に、私にちょっかいを出さないように促すが、女の子はどうしても私から離れようとしない。

私も日記を書く事を諦め、女の子と一緒になって遊んだ。

遊ばれた、と言ったほうが良いかもしれない。私たちに、会話はなかった。

タイ語も赤ちゃん語も話せないからだ。しかし、私たちに、笑顔は絶えなかった。世界中、どこの赤ちゃんもこんなに可愛くて、キラキラしているのだと、改めて思った。

親友とバンコクで合流

 

アユタヤに二日間滞在したのち、三日目の早朝、バンコクへ戻るために駅へと向かった。

改札口を入ったところで、朝食を買うと、ベンチに座りなからそこをうろつく犬を眺めていた。15分もすると、定刻の時間に列車が到着した。私はすぐに飛び乗った。

まさかその列車が、バンコクとは正反対のバンコクの北、チェンマイに行く列車だとは思いもしなかった。

列車が300メートルほど動き出すと、私はすぐに何かが違うと悟った。バンコクの方向と真逆の方向に列車は進み出している。しまった!と思った。わたしの様子を見た駅員の方は、「Where are you go ?」と聞いてきた。「Bang kok.」私の言葉を聞くと、駅員さんがトランシーバーを使って一言話した。すると列車は急にキーンといって止まった。


ドアは開き、駅員さんは降りるように私に合図した。列車を降りて振り返ると、窓から沢山の人達が顔を出して私をみている。そして、笑っている。私は駅員さんに「ありがとう」と告げると、駅の方へと線路を歩きだした。

最後まで何かしらしでかしてしまったが、アユタヤに来て、タイがとっても好きになった。

列車から見える景色は緑の畑と、お昼寝をする犬たち、そして、のんびりと暮らす人々だった。

バンコクに戻ってくると、また居心地の良いホステルが待っていた。そしてわたしは翌々日の親友の到着を待ちわびていた。

私たちは、小学校からの親友である。放課後、二人で走って帰り、ランドセルを玄関に放り投げては時間を惜しんで遊んだ。あの頃から、やんちゃで、冒険が大好きだったように思う。そんな親友は、三年間働いた職場を辞め、ニュージーランドに短期留学する道を選んだ。

新たな仕事が始まる前の半年間、新しい自分を見つける旅にでたのである。その旅を締めくくる最後の挑戦が、ここ東南アジアであった。

 

私はバンコク国際空港に彼女を迎えに行き、私たちは半年ぶりの再会を果たした。しかし親友に、距離や時間の間隔は関係ない。私たちはいつものように、また二人で歩きだした。二人の旅はこうしてはじまった。この夜ホステルで出会ったのぞみさんとの出会いと励ましの言葉は、いまでも忘れられない。

タイからカンボジアへ

 

親友の到着を待ちわびていた私は、カンボジア行きの長距離バスの切符を前日に二枚取っていた。タイを離れる前日、タイの屋台で晩餐をして、翌日早朝、私たちはタイから国境を越えるためにバスに乗り込んだ。

 インターナショナルバスと言っても良いほど、このバスの中には外国人しかいなかった。タイからカンボジアのシェムリアップまで、約6000円程度で行けるこのバスは、外国人、とくに、欧米からのバックパッカーで埋め尽くされていた。

私たちは、カンボジアに着くまでの約10時間、寝たり、話したり、これからはじまる本格的なふたりの「メモリアル旅行」に期待を膨らませていた。

                       第一章のおわり        EMI







2015年の瀬に                                                     吉永英未

 

 年の瀬というのに、大学の中に住んでいると、全くその気配を感じない。というのも、ここ中国では旧正月を過ごすので、日本のようなわくわくとした慌ただしさはない。日本で見るクリスマスのイルミネーションを懐かしく思った。

 1218日、住み慣れた南京を離れる日が来た。925日に南京に来て、10月はホームシックになり、上海に帰る日を指折りに数えていた。

そんな日々を乗り越え、論文の構成発表を終えて帰ってきた南京には、待ってくれている友達がいて、帰る場所があった。

南京はすでに、わたしの二番目の家になっていた。そしていよいよ、上海に帰る日が来てしまったのだ。

もとは、1231日までいる予定だったが、復旦大学で行われる日中韓女性史会議のため、18日に上海に戻ることになった。それは、思いがけないことだった。

 会議への通訳としての参加は、担任の先生からのお誘いがきっかけだった。11月の後半、

「来月歴史学部で女性史についての日中韓シンポジウムがあります。えみにぜひ、中日の通訳をお願いしたいのだけど」

わたしは、初めは戸惑った。アルバイトで中国人旅行客の通訳をした経験はあったが、学術的な会議での通訳をしたことは一度もなかった。しかし、自分の所属する歴史学部から頼まれた仕事。きっと引き受けたいと思った。

 その後、18本もの論文とその概要が送られてきた。会議までに目を通しておくこととのことだった。

テーマは、慰安婦問題から中国文学まで、多岐にわたった。

わたしは一つ一つに目を通し始めた。それは、大量の時間と、根気のいる作業だった。

一本の論文に目を通したあとは、南京大学の友達に分からない中国語の表現の意味を聞き、討論をした。

とても情けないのだが、中国に来て初めて短期間でこんなにもたくさんの論文と向き合った。なんですべて漢字で書かれているんだ!と拗ねたこともあった。

 1218日午前11時。南京大学の食堂の大きなテーブルを囲み、わたしはお世話になった友達と南京で最後の食事をした。

バドミントン、盲学校のボランティア、わたしの教えている日本語の授業などで知り合った友達同士は、この場で初めて顔を合わせた。お昼の後は、そのままみんなでわたしの家に行き、家を出る手続きを済ませた。

午後1時半、復旦大学の学友の方、現北京科学研究所教授で現在南京支部にお勤めしている楊先生が車で迎えに来てくださった。

この楊先生とは、バドミントンで知り合い、お話をする中で、名古屋大学の修士と博士を出て、アメリカで14年間働き、また学部は復旦大学卒業ということで、様々な共通点も重なり、連絡先を交換させていただいたのだ。

その楊先生は、私が復旦大学に帰ることを知り、南京駅まで送って下さることになったのだ。

 地下鉄の駅には、南京大学で知り合った大切な友達が見送りに来てくれた。

ひとり、また一人から手紙とプレゼントをもらった。

友達からの手紙には、「南京大学はえみの家だよ。また帰ってくるのをいつでも待っているからね。」と書いてあった。

また、バドミントンで知り合い、弟のように慕っていた後輩からは、「始めたあった日のことが昨日のことのようだ。えみがいなくなると心の中に穴があいてしまったみたいだ。」と書いてあった。

南京で知り合った日本人の友達や歴史学部の友達。一人ひとりにさよならを告げるには、少なすぎる時間だった。あっという間に、車は出発しなければならなくなった。わたしも準備していた手紙を一人ひとりに渡し、みんなとハグをして、車に乗った。

 15時5分、高速列車は上海へと向かってゆっくりと動き出した。私を大きく成長させてくれた南京は、だんだんと遠くに、そして小さくなっていった。

 1219日、一息つく暇もなく、会議前日ということで、浦国際空港に、翌日から始まるシンポジウムの報告をする日本人の先生方をお迎えに行った。

午後2時半に空港に到着してしまった私は、午後6時前にようやく成田から到着された先生にお会いすることができた。復旦の先生は、私に日本人の先生のお迎えを、そして韓国人留学生には韓国人の先生方のお迎えを頼んでいた。私たちは二手に別れ、それぞれの国から復旦に来られたお客様の接待に当たった。

 1220日、いよいよシンポジウムが始まった。この女性史シンポジウムは、一年ごとに韓国、中国、日本で行われている。今年は中国の復旦大学で開催されることになった。私にとっては、初めての会議での通訳という大きな挑戦であった。

 通訳は全部で4人。すべて復旦大学の修士、博士課程の学生である。日本人と韓国人の学生が一人ずつと、日本語と韓国語を専門とする中国人学生が二人である。私たち4人は当日に初めて顔を合わせた。

仕事分担として、中国人学生は、日本語もしくは中国語を中国語に訳す。そして、日本語はまず中国語に訳され、その後韓国語に訳される。韓国語も中国語を経て日本語へと訳される。

わたしと、韓国人の学生は、中国語をそれぞれの母語に訳す。この複雑な作業に、先生からは「あなたはとりあえず中国語に出会ったらそれを日本語に訳せばいいのよ。」とアドバイスをいただいた。

 報告者が一言、もしくは一センテンス話した直後にそれを二人の学生がそれぞれの言語に訳す。そのため会議は普通の3倍の時間がかかる。

 一日目の一本目で、私はいきなり窮地に陥った。一番目の報告者は韓国人の先生である。わたしは、韓国人の先生の発表する原稿を中国語に訳したものを当日発表開始10分前に手にした。

20日前に、すべての先生の論文はメールにて手元に送られてきていたが、韓国語で書かれた論文はさすがに目を通すことができなかった。そもそも南京にいた私は、韓国語は担当ではないと思っていたからである。先生と通訳の学生同士で直接交流するチャンスが会議当日までなかったため、私は会議の流れをあまり理解できていなかった。そのとき初めて、韓国語が中国語に訳された後、それを私が日本語に訳さねばならないことを悟った。

 実際にプレゼンが始まると、私は頭の中が真っ白になった。みんなが注目し、マイクが目の前に用意される中で、韓国語はポカーンと聴いていたが、中国語が話され、周りの全員が私の日本語の通訳を待っているとき、私は動転した。

何を言っているのか、まったく聞き取れない。。。論文に目を通したことがなく、その内容も大変深く入り込んだ専門的なものであり、とても即席通訳などできなかった。私には、その能力がなかった。

 私は、左側にある韓国語担当の中国人学生の用意した中国語で訳された原稿を必死で目で追い、できる限り話した。緊張と戸惑いで、何を話していたか覚えていない。すると、見るに見かねたある大学の先生が、私の隣に座ってくださった。

日本語がわかる中国人の先生であったため、私が話した後に日本語で補足を加えてくださった。正確に言えば、私の通訳できる内容はほんの少しに満たなくて、残りのほとんどをその先生が訳してくださったのだ。こうしてその修羅場はなんとかくぐり抜けることができた。

 冷や汗をかいた私は、その後午前中の三時間は緊張で背中はかたまり、日本語も正しく話せなかった。ようやく午前の部が終了したとき、ふにゃふにゃになってしまった。

私は即座に日本人の先生方のもとへ行って、お詫びを申し上げた。「本当につたない通訳で申し訳ありませんでした。」先生方は、「大丈夫よ。お疲れさま。ありがとうね。」と言ってくださった。それが何よりも心の支えになった。

 午後の部は、少しだけ慣れてきて、少しだけ自信をもって話すことができた。

しかし日本語のできる先生は私の隣に座り、引き続きわたしを支えてくださった。こうして一日目のシンポジウムは終了した。これまでに経験したことのない疲労で肩が下がった。

自分の中国語の力不足と、努力の足りなさ、精神的にも大きなダメージを受けた。私が戸惑っている間、韓国人学生はしっかりと一言一言を韓国語に訳していた。学部から復旦大学の歴史学部であるという彼女は、リスニング力に長けていて、日本語の先生の報告の中国語の原稿もすべてあらかじめ手に入れてそれを韓国語に訳して準備していた。そのためほぼ完ぺきに、自分の仕事をこなすことができていた。それに比べてわたしは、、、。私は自分が情けなくなった。

もちろん、準備をしていなかったわけではない。しかし、こんなにたくさんの論文をたった20日間で読めるはずがない、、、と弱腰だった自分のことが否めない。自分に甘えて、完ぺきに準備を整えることができなかった。私の昔からの「なんとかなるさ」精神は、逐次通訳の場ではなんとかならないことを改めて深く実感した。

 会議二日目。最終日であり、復旦大学の先生の報告ということで、私も気合を入れなおした。

今回の論文はしっかりと目を通してあり、また南京で討論も重ねてきた内容であったため、最初から最後までほぼ一人でしっかりと通訳をすることができた。

しかし韓国語での報告の即時通訳は先生方の助けを貸していただくしかなかった。

こんな半人前とも言えない私を、様々な方が支えてくださった。

そして会議の終わりには、「通訳大変だったでしょう。お疲れさま。」と温かい声をいただいた。

最後の主催者側の挨拶からも、「通訳のみなさんは本当にお疲れ様でした。」という言葉をいただいた。

 こうして一日と、半日の日中韓女性史会議は幕を閉じた。

私たちはその報酬として、3千元、日本円で6万円をいただいた。私は、会議が終わるまでまさかこんなにたくさんの報酬があるとは思ってもいなかった。

この二日間は、全力を尽くしたが、やはり自分の力不足を痛感し、この大金が独り歩きしているような感じがした。

先生方は、韓国人の学生を褒めたたえた。私も、同じ年である彼女を尊敬のまなざしで見ていた。復旦人は、与えられた任務は、絶対にやってこなす。たとえ通訳する内容が前日にメールで送られてきても、それにしっかりと目を通し、訳した文章を持ってくる。それは私以外の三人の通訳に共通したことだった。

この二日間の会議を通して、一番の収穫は、自分の弱点、実力のなさに改めて気づくことができたことである。私はまだ、周りのレベルに達していないことは明らかだった。それなのに私は、本当に自分に甘い。

少し努力すると、その気になって、まだ任務を完成させていないのに、平気であきらめてしまう。つまり自分の中で限界を決めてしまっているのである。本当に、情けない限りである。これから一層の努力が必要であると身にしみて感じた。

 もう一つの収穫は、この韓国人の彼女との出会いである。復旦に来てから、初めての韓国人の友達である。同じ91年生まれの彼女は、将来東アジア共同体を研究したいという目的があり、日本語も勉強するつもりということだった。そこで、私たちはこれから毎週一時間ずつ韓国語と日本語の相互学習をすることを決めた。同じ目標を持つよき友達、ライバルができたことは、私にとってとても心から嬉しいことだった。

 さて、クリスマスをさみしく一人で過ごした私だが、いよいよ冬休みの旅に入ることになる。18日、上海からタイのバンコクに飛び、それからカンボジア、ベトナム、インドネシア、台湾を周ることになる。東南アジアは初めてで、不安も多少はあるが、またとないこの機会を精いっぱい大切にしたいと思う。

 カンボジアでは、平和活動平和教育を行っているオーストラリアのNGO団体を訪問する。これから始まる一か月以上に及ぶ東南アジアの旅に、まだ心の準備は整ってはいないが、学部時代に続き一人旅は初めてではないので、心を決めて、勇気をもって、熱帯の東南アジアへ飛び出していきたいと思う。

  最後になりましたが、日本の皆様、2015年は大変お世話になりました。三歩進んで二歩下がる。一歩ずつゆっくりでも、確実に前に進んでいけるようにこれからも努力していきます。そして、年の瀬に学ぶことができた自分の弱さ、まずは正直に受け止めて、そして少しずつ周りの方たちに追いついていけたらと思います。

 2015年は決して平和な年ではありませんでした。2016年が一人でも多くの人にとって幸せな年になれますように。そして、平和な年でありますように。

           20151226 復旦大学留学生寮にて 吉永英未より

 









知恩報恩      吉永英未   2015.12.2(水)

 

 1116日、二つ目の自宅になる南京の家(住まい)に戻ってきた。

復旦大学で、論文の構成発表とバドミントンの試合に参加し、笑顔と元気を補給して、第二の家に帰ってきた。

私が南京に帰ってきたことを友達に告げると、「やっと帰ってきたんだね、短い間だったけど会いたかったよ。今夜ご飯食べに行こう!」と優しい言葉をかけてくれたのは、バドミントンで知り合った樊士である。

そしてひとり、またひとりと、再会の食事をする約束を交わした。食事は、コミュニケーションをとるためにとても大切な場である。とくに中国では、食衣住というように、食事に重きを置いている。それは食事の文化であり、人と人の交流に欠かせないものだからなのである。顔見知りの友達、一緒に授業を受ける友達と、一度でも食事を共にしたことのある友達は、そうでない人たちとは距離感が全く異なる。

私たちは食堂で、1食7元程度の食事を食べながら、お互いの事について話をする。そこにはデザートも無ければ、お酒もない。しかし、向かい合って食べる目の前のこの友達と過ごす時間こそが何よりも意義があるのだ。

 復旦でも南京大学でも、バドミントンを通して知り合った友達は少なくない。スポーツを通して知り合った友達だが、バドミントンの後は勉強の話もするし、家族のこと、恋愛の話もする。

バドミントンの強さ弱さはさておき、学問においては、二つの学校のどちらの学生も私にとってはお手本であり、彼らは先生である。 

 南京大学に来て、繰り広げられる日々の物語(つまり生活)は、復旦では全く想像もできないものだった。私は、南京大学をすごくすごく好きになった。当然、南京という土地自体もとってもとっても好きになった。それは、ここに住む人の温かさそのものだった。 

 1120日、南京大学で行われたバドミントンの試合に参加することになった。 

わたしは、南京大学第二チームに入れられた。そして、南京漢方大学や南京師範大学などと戦った。117日に復旦大学で行われた試合で優勝してしまった私は、自分に少なからず自信を持っていたに違いない。 

そして、参加する一つ一つの試合で必ず、いい成績を残したいと思っていた。その思いを、他大学で参加する試合でむき出しにしてはいけないと思い気をつけていたのだが、ある出来事をきっかけに、わたしのバドミントンにかける熱すぎる情熱はむき出しになってしまった。そして、苦い思い出を残すことになる。 

 団体戦のチームリーダーは試合がはじまる前に、誰がシングルに出て、誰がダブルスに出るか参加項目を紙に書き入れ、提出しなければならない。私たちは午前中の試合はすべて勝ち、みんなでごはんを食べたあと、対戦相手のレベルも上がる午後の試合に備えた。 

 午後の試合の一回戦、これまで女子シングルスに出ていた私は、何も疑うことなく、今回もシングルスに出るものと思っていた。

しかし、コートに出て行ったのは私ではなく、別な女の子であった。対戦相手はなかなかの腕。こちらといえば、その相手に敵ないそうにない女の子。私は焦った。 

「ちょっと待って。シングルスはあの子がでるの?」 

しかし、提出した参加項目の紙は書き換えることはできない。試合は予想通り、女子シングルスは相手に余裕で勝たせる結果となっていしまった。
 わたしは納得いかなかった。

一つは、同じチームとして、チームメイトに相談することなく参加項目を決めてしまったことが理解できなかった。

そしてもう一つに、シングルスで自分が出れば落とすことはなかったとこれまで経験したことのない悔しさとやるせなさで胸が熱くなったからである。 大人げないわたしは、3つも4つも年下のチームメイトを前に、はらけてしまった。 

「なんでわたしに出させてくれなかったの?」 

この時のわたしに、自分が復旦大学の学生で、チームメイトのお陰でこの試合に出させてもらっていること、リーダーはわたしの体力を考慮して、ほかの女子にシングルスを出させたことなど、考える余裕などなかった。 

ただ、悔しさとやるせなさ、そしてこれまで試合に負けることのなかった私にとって、「自分の実力を発揮しないまま」負けた試合は、耐え難いものだった。そのやるせなさは、リーダーへの疑問と怒りへと変わってしまった。

 コートの片隅でひとり、失望している私に、リーダーは近寄ってきた。 

「相手がこんなに強いとは思っていなかったんだ。僕はえみの体力も考慮して、ほかの子に出てもらったんだよ。そんなに怒らないで。僕はえみに謝りに来たんだ。」 

中国で、謝罪をすることは少ない。面子を重んじる中国社会では、よっぽどのことのない限り、正式に謝ることはない。それは、学生も、社会人も同じである。そんな中国でわたしは、自分の情緒をコントロールすることができず、彼に謝らせてしまったのだ。 

彼が面と向かって謝ってきたとき、わたしは改めて自分の過ちに気づいた。そもそも、試合に参加したのは友情のため。友情第一、試合第二というスローガンのもと参加した試合で、わたしはなんと同じチームメイトに怒りをぶつけてしまっていたのだ。

 次の試合が始まる前、わたしはリーダーに謝りに行った。 

「さっきはごめんね。感情化して、自分の気持ちをコントロールすることができなかったんだ。」私たちは、和解した。 

 今回の試合は私に、体力的、それ以上に精神的に大きなダメージを与えた。

それは、自分に対する失望と、反省であった。

「勝つ」ことに対する固執、傲慢、そして仲間を信じることができなかったこと。自分の情緒をコントロールすることができず、仲間を傷つけてしまったこと。あとから冷静になって考えてみると、自分が犯した過ちに深く反省した。

そして、わたしは、「バドミントンから距離を置こう」と決心した。 

 それからというもの、友達が「えみ、今夜一緒にバドミントンをしようよ!」と誘ってきても、様々な理由を探して断るようになった。 

自分にとって、この休みが必要であると考えたからだ。そして、そんなわたしの気持ちに合わせるかのように、参加することが決まっていた学部対抗戦にも参加できないことが分かった。その理由は、私が他大学の学生だからであった。 

わたしはこの現実をすんなりと受け入れることができた。というのも、当たり前の結果だと思ったからである。仲間からは、「試合には参加できなくても一緒にバドミントンは楽しもうね。」と励まされた。

 しかし、わたし本人以上にこの結果に納得できない仲間たちがいた。それは、同じ歴史学部の学生であった。 

彼らは、私が歴史学部の学生として試合に参加することを心から願っていた。そして、試合前日に知らされたその結果に、納得できないどころか、なんと主催者側に抗議を始めたのだ。 

わたしは、「わたしは南京大学の学生ではないし、ほかの学部の学生にとって不公平になるなら、参加したくないよ。」と行って学部の主将を説得したのだが、彼は強く私が試合に参加することを望んだ。 

彼らは、過去にサッカーの試合で留学生もひとつの学部を代表して参加したことを例に出し、また南京で行われた学校対抗の試合に私が南京大学の学生として参加したことのあることを強調し、主催者側を説得した。 

そして、その主催者側の一人であり、わたしの大切な友達の天睿は、深夜にまで渡って先輩を説得して、この私を試合に出させてくれるように頼み込んだ。 

 その壮絶なやり取りを知る余地も無かったわたしは、試合前日に、わたしが試合に参加できることになったという知らせにただ驚きを隠せなかった。 

それは、交換留学でも何でもない、なんの籍もない他大学の留学生が、南京大学の歴史学部を代表して試合に参加するという前代未聞のケースとなったのだ。 

 その背景は、歴史学部のメンバーの努力と、わたしの親友とも呼べる天睿が一生懸命先輩にお願いして叶った、「人情」の賜物であった。

本部からの最終決定は、「南京大学に籍があるなしに関わらず、いま南京大学で学んでいるのなら、南京大学の学生に変わりはない。国際友人の参加を大いに歓迎したい。」というものであった。私はその温かさに感動し、目頭が熱くなった。

 いつものバドミントンの帰り道、樊士はいつものようにわたしを校門まで送ってくれた。彼は、私が南京に来たばかりのとき、夜の南京大学を案内してくれて以来、いつもわたしを見つけては、笑顔で手を振ってくれる。わたしのことを心から気遣ってくれる大切な友達の一人である。 

私はバトミントンの帰り道、そんな彼に相談を始めた。

 上海に戻って行った論文の構成発表では、前に進むどころか、私はゼロに戻ってしまった。 

先生方からは、研究方法と研究方向を大掛かりに変えなければならないと指摘をいただいた。率直に言えば、もう一度書き直しなさいということであった。 

私はがっかりを、隠しきれなかった。前に進んでいたはずが、また振り出しに戻ってしまったのだ。そして現在、南京に居ながら、次の目標を見つけることができなくなってしまった。 

言い訳を探すことは簡単だが、私の努力不足以外に何でもない。しかし、方向性を見失った今、努力する目標を見つけられずにいる自分がいた。 

 そして、生活面の問題。中国の大学では、図書館や食堂、全てにおいて学生カードが必要である。その南京大学の学生カードのないわたしは、どこに行くにもあまり便利ではなかった。食堂では、注文をしてから食券を買いに行き、その券を手渡すことでやっと食事ができた。 

図書館は復旦大学の学生証を見せるほか、本を借りるときは必ず南京大学の学生にお世話になった。そんな私のお願いを、みんな快く受け入れ、手伝ってくれた。しかし、そのこともだんだんとしんどくなった。 

それは、体力的にではなく、カードが必要なその度に、自分がこの大学の学生ではないという疎外感を少なからず感じていたからだ。わたしは、気分が良い日に食堂で頼んだごはんをタッパーに入れて持ち帰っては、それを温めて食べていた。そうすることで、食堂に行く回数を削減することができた。

そんな日々の中で、3日前に詰めたごはんを食べてお腹を壊してしまったこともあった。    

 彼は私の話をずっと聞いてくれていた。そして、勉強面のアドバイスから、一つ一つ丁寧に私に話をしてくれた。

ひとつ年下の彼は修士課程一年生だが、修士論文を学部時代に書き上げ、主席で同大学院に入った。 

彼は、「誰もがきっと、英未のような問題にぶつかったことがあると思うよ。一つ一つできることからやっていくこと。まず、論文で何を書きたいのか明確に決めること。そして例えば、第一章が書けないなら、第二章、第三章から書く。そうやって繋げていけば、いいんだよ。」私たちは理系と文系で専攻は全く異なるが、指導教員との接し方など、様々なアドバイスをもらった。

 そして、私の学生カードについて彼は、「なんでもっと早く言ってくれなかったの?僕が明日思い当たる人に聞いてみて、えみのためにカードを借りるよ。」と言ってくれた。 

彼は続けた。「自分ひとりでは解決できない問題も、友達に相談したらきっと解決することができる。たとえ解決することができなくても、話すだけで心がほっとするでしょ。

大学で知り合った友達は、他の友達と全く違うんだ。困ったときはお互いに助け合うこと。何年後に集まったって、やっぱり昔のようにたわいのない話が出来るんだ。だからえみも、この大学の友達のこと、もっと頼っていいんだよ。」と。
 

わたしはその言葉を聞いたとき、涙が出そうになった。彼は、私のことをこんなにも理解してくれていたのだ。わたしはもう、ひとりぼっちではないのだと心から思えた。 

 私たちは、夜の歩道を照らすライトの下で、話し続けた。というより、彼がずっとわたしを励ましてくれた。

「カードが手に入ったらすぐに、えみに連絡するからね。」

と言って手を振った彼は、二日後にはカードを使わなくなった友達から借りたカードを私に手渡してくれた。南京大学にいる間はずっと使っていいという。わたしは本当に、南京大学の学生になった。 

 121日、復旦大学のクラスの担任の先生から、連絡が来た。 

1219日から21日まで、歴史学部で国際学術会議があり、日本語の通訳をぜひ私に担当してほしいということであった。 

国際会議は聴きに行ったことがあるが、自分がマイクを持ったことはなかった。ましては、発表者の通訳を担当することなど想像したこともなかった。自分の学部で開催される国際会議、わたしはもちろんその仕事を引き受けた。担当の先生からは感謝の言葉と、応援を受けた。
 しかし、この晴れ晴れしいチャンスのもう片方では、わたしが南京と別れを告げなければならないことも意味していた。 

もともと一学期間、南京大学で学ぶことになっていたわたしは、12月末に授業が終わるとともに上海へ帰るつもりだった。しかし、この国際会議のため、10日早く復旦大学へ戻ることが求められた。

 それは、南京でお世話になった愛おしい友達に、あと十数日で別れを告げなければならないということでもあった。 

122日 南京大学仙林キャンパス図書館にて 吉永英未








                                              南京大学 日記

 ―2015.11.1日 一月(ひとつき)振りに戻って来た復旦大学から―emiより

自分の部屋のドアを開けるとき、嬉しさで手が震えた。自分の部屋があること、部屋の中にトイレやお風呂が付いていること、学生カードで図書館にすんなりと入れること、食堂でご飯が食べれること、そして何より、これまで友情を育んできた友達と、再会できること。

当たり前のように過ごしてきた日々に、何気なく通り過ぎていたことに、限りない嬉しさを感じた。それは決して大げさなことではない。 

それは、言葉で簡単に言い表すことができないほど様々な感情に満ちていた南京での日々が私に気づかせてくれた、大切なものだった。

 720日に南京大学を初めて訪れ、次の学期から南京大学で学ぶことが決まってから、わたしはこれからはじまる南京での生活を心から楽しみにしていた。

 一年間住み慣れた上海での生活から離れ、新しい環境、新しい友達、新しい学び、新しい生活が始まることにとてもワクワクしていた。

  しかし、実際の生活は、わたしの想像していたような美しいものではなかった。

 私は、友達の紹介で南京大学の目の前のアパートに毎月500元(日本円で一万円程度)の家を借りた。南京大学仙林校区は、南京市内からは地下鉄で約40分と、離れたところにある。

この地区一帯は、ほとんどが大学で、「大学城」と呼ばれているほどだ。南京大学は三つのキャンパスがあり、2009年に建てられたこの仙林キャンパスが一番広く、ほとんどの学部がこのキャンパス内にある。

 そんな南京大学に到着してすぐ、わたしは平和学会などに参加し、とても有意義な一週間を過ごした。それは、私を受け入れてくださった劉成先生が下さったチャンスだった。

 その一週間が過ぎると、中国は国慶節で一週間の休みに入った。

そして、『孤独―loneliness-の7日間』がはじまった。

  観光地は人で賑わい、学生のほとんどは故郷の家に帰り、学校はシーンと静まり返った。

そして私は、この七日間を上海に戻らず南京で過ごすことを決意した。それは、まだ来たばかりの南京で、この7日間を過ごすことが自分にとって必要だと思ったからである。

 それが、私の「孤独」との戦いになると分かっていたならば、まだ、覚悟が足りなかったように思う。

 国慶節の半ば、私はそんな孤独に耐えられなくなってしまった。23人しかいない友達もみんな実家に帰り、わたしはひとり、この広い大学城に残されてしまった

。もちろん、やるべきことは山ほどある。それは承知でも、一日中誰とも話さない、食堂でおかずを注文するときにこれとこれ」と話すこと以外、人と会話する機会が全く無くなってしまっていた
 

また、食堂で食券を買うたびに、この大学の学生ではないのだという疎外感も少なからず感じた。復旦の食堂が寮から歩いて1分の距離にあるのに比べて、南大食堂は大通りを挟んでいるため、自転車で10分弱かかった。

 、一日のほとんどを自分の部屋で勉強して過ごしていたため、食事のためにわざわざ一人で食堂まで行く気持ちも無くなってしまった。

また、わたしの住んでいるアパートはシェアルームで台所が共同のため、決して清潔とは言えず、とても料理なんてする気にはなれなかった。

そこで、5元で3日分の麺を買い、ステンレス製の鍋に入れ、麺を湯で、日本から持ってきた味噌汁をかけて食べることにした。何日かすると味噌汁も底をつき、今度はスーパーで買った冷凍餃子を食べることにした。そんな生活が続いていた。

 午前中は、イヤホンで英語の会話をひたすら聞きながら、自転車でサイクリングをした。仙林の通りは緑に囲まれ、とても気持ちが良かった。

 何より、いい気分転換になった。南京漢方大学やスーパーや市場や湖のある公園など、毎日新しい発見があった。それからというもの、毎朝起きると7時には自転車に乗り、同じコースを辿った。2時間後に自分の部屋に帰ってきた。

午前中は英語に時間を費やし、午後は研究計画書の作成に頭を悩ませた

 しかし、気づいたのは、精神面の安定があって初めて、学問が成り立つということである。復旦では、クラスメイトや日本人の友達、売店のおばちゃんなど、立ち話で5分も話してしまうことがほとんどだった。

 しかし、このまだ慣れぬ土地では、そんなたわいない会話も生まれなかった。そして一人になると、考えてもどうしようもないことばかり考えていた。上海の友達に勇気を持って電話をかけて、弱音を吐いても、結局は「がんばれ」と笑顔をもらえるだけで、会うことはできない。

気がつくと携帯を握りしめてベットの上で子供のように泣いている自分がいた。「こんな孤独はいやだ。上海に帰りたい」そう心が叫んでいた。

  涙を流す日が何度もあったが、私はそのたびに、自分は何しにきたのかを自身に問い続けた。いま思うと、この孤独との戦いは、しっかりと自分に向き合い会話する必要な機会であったのかもしれない。

  7日間の休暇が終わり、私は初めて授業に参加した。平和学の授業は火曜日の夜6時半からである。

   ついに『孤独からの脱出』が出来た。

100人以上もの学生が受けるこの授業で、劉成先生は私のことを紹介して下さり、質問をする際には私に発言をする機会を与えてくださった。

そのため2時間のその授業は、背筋が伸びっぱなしだった。

 そして、新たな友達との出会いも私を勇気づけてくれた。

 私は、休日が明けてすぐ、ラケットとシューズを持って体育館へ向かった。

目的はもちろん、バドミントンをするためである。

一人の友達との出会いがまた一人、ひとりと友達を呼び、そして一緒にバドミントンをすることで友達ができた。

そのことが、何よりも嬉しかった。そしてのちに、試合に誘われたり、南京大学のバドミントンチームの練習にも誘われるようになった。

高校時代に必死になって打ち込んだバドミントンが、今花を咲かせてくれたようである。

  ある日、数学学部の樊士くんに誘われて、バドミントンの後、食堂で一緒に食事をした。

そしてその後、彼の案内のもと学校を見学した。

すでに外は暗くなっていたが、三日月と電灯の光が私たちの行く道を照らしてくれた。

 南京大学の敷地内にはなんと、山がある。そして、大気学部や天文学部の研究室はその山の上にあり、まさに自然と一体している。

親切な士慶くんに案内されながら、私たちはその中でも一番低い大気学部の山を登った。

久しぶりに、星を見ることができた。広いキャンパスを見下ろし、南京大学の良さをまた一つ発見した。

バドミントンで知り合った士慶くんは修士一年生で、その優秀さは飛び抜けていて、学部時代にを修士論文をすでに書き上げてしまったそうだ。私たちは、お互いの話をしながら、夜の大学を探険をした。

  南京に来て一ヶ月目の1025日、私は、南京で出会った二人の友達天睿,昕と、一足先にささやかな誕生日パーティーを開いた。

小さなケーキを囲い、私たち三人は誕生日を祝った。95年生まれの天睿と、96年生まれの昕、そして91年生まれの私。116日、7日、8日にそれぞれ誕生日を迎える私たちは、年齢の壁を越えて、大切な友達となった。

そんな二人は、わたしが論文の構成発表のために、一度上海に戻らなければならないと知り、誕生日会を提案してくれたのだ。

 新しい環境で、衣食住を一から整え、人間関係を一から築くこと。それは、決して容易なことではない。

しかし、新しい土地でも、「平和学を学ぶために南京大学に来た」私のことをたくさんの友達が支えてくれる。

いまや、復旦と南大の両方で先生方や友達が支えてくれている。

そして、日本で応援をしてくださっている人たちがいる。

 私に、夢を諦める理由なんて一つもないことに気づく。

 南京大学で学ぶことのできるこの短い期間で、どれだけ成長できるか分からない。

 しかし、今置かれている環境に感謝し、逆風の中でも努力を続けること、そして、逆風も自分の受け止め方次第で順風にさえ変わることを私は学んだ。

 それは、わたしが南京大学で過ごしたこの一ヶ月で得ることの出来た、小さな、でもかけがえのない収穫であるのかもしれない。

  上海で過ごす残りの二週間、そして戻った先南京で過ごす残りの貴重な学習期間を、大切にしたい。 

   2015111日 一ヶ月ぶりに戻ってきた復旦大学から 吉永英未より

                          

 

 










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         国際青年平和学会        南京大学での英未の回憶 

                       2015年10月1日国慶節1日目  吉永英未

  925日から、南京大学に来て、1週間が経ったばかりです。でも、その収穫と感じたことは、その日数に比例しないものでした。  24日に南京に着いたわたしは、翌25日に劉成先生に招待され、夜の食事会に参加しました。

さまざまな国の平和活動をしているNGOの方や、平和学の教授の方に囲まれて一緒に食事をしました。わたしは、箸を握るよりも、両隣の先生方に夢中になって話しかけました。日本でも上海でも、平和学、平和活動をしている外国人の方々と、こんなにも近くで話をすることは、今までありませんでした。「こんな貴重すぎるチャンスはない」、とわたしは思い、つたない英語で必死に質問し、交流をしました。

  食事会の後でわたしは劉成先生のご自宅に招かれました。

そこで劉成先生とドイツ人学者Egonとの共著である(出版されたばかりの)平和学の本をいただきました。まだ店に出ていない、こんな貴重な本を頂けたことが嬉しすぎて、スキップをして家まで帰りました。 

  926日、南京大学で開催された国際青年平和学会。劉成先生がまさか私に、発言の機会を与えてくださるとは、思ってもいませんでした。

マイクを持たされて、同時通訳の付いている中で、自分の言葉を発しました。

緊張して、脚まで震えたのは高校時代の学生論文発表会以来のことでした。

そしてここで出会ったイギリスのアレン教授、その奥様の高子さまとの出会いは私にとってかけがえのないものになりました。

短い交流の時間に語り合ったことは、これから人生を歩む上で大きな糧となるような、そんな大切な事ばかりでした。そしてふと笑った高子様の横顔を見ると、お母さんのような気がしてなりませんでした。

  28日から30日までの二日間は、平和トレーニングに参加しました。

平和トレーニングってなんだ、とお思いになるかもしれませんね。

この平和トレーニングは、American Friends committee というNGO団体が主催する、平和構築、平和維持のモデルを実践的に考える活動のことです。

模擬国連を想像していただけるとわかりやすいと思います。中国全土から、記者や公務員、大学教授など、選抜された20人の方々がここ南京大学に集まり、4日間の平和トレーニングを行います。使用言語は英語で、職業も年齢もバラバラな方々が朝9時から午後5時まで、そして食事も全てともにします。

 そしてわたしもなぜか、このトレーニングに参加することになりました。というのも、「講演があるから見にこれば?」と言われて参加したものが、このような大規模なトレーニングだったということを、後になってやっと知ることができたのです。

講演を聞いた後に、「あなたは今日から来たの?」「はい。」と答えると、組み分けされたグループに入れられ、このトレーニングを受ける一人になってしまったのでした。

  上海を離れてわずか3日目で、まさかこのような機会に恵まれるとは思ってもいませんでした。

わたしの周りの方々は新聞記者の方や政治学の教授、公務員と立派な大人の方ばかりなのに、わたしだけが最年少の学生ということで、最初はこれでよいものかと戸惑いました。

そんなとき、劉成先生が駆けつけてくださり、私をみんなに紹介をしてくださいました。こうしてわたしは、残り2日間に迫ったこの平和トレーニングに見学者ではない一参加者メンバーとして参加することになったのです。

  このトレーニングで学ぶことは、紛争解決や平和構築の方法、それはまさにわたしが学びたいと思っていたことばかりでした。わたしは、始めて聞く内容に、わくわくし、目をキラキラさせて聞いていました。心から幸せに思いました。

しかし、いざ実践的になトレーニングに入ると、言語は全て英語での討論。わたしは、言語の壁にぶつかりました。

自分の専門分野で、討論に参加して自分の意見を伝えたくても、英語でそれを表現する力が私にはありませんでした。

周りの方々は、アメリカで修士課程を修了した方、海外をレポートする記者の方、国際関係の先生など、英語を自由自在に操ります。

わたしは、自分が悔しくなり、また、焦りました。トレーニングが終わって家に帰るとすぐに英語の勉強を始めました。学校までの行き帰りはずっとイヤホンで英語を聞くようにしました。夢の中でも英語を話していました。

30日、トレーニングが終わり、修了証書の授与式があり、みんな一人ずつ感想を述べました。

わたしも始めて、みんなの前で英語を話しました。

つたない英語で、でも感謝の気持ちをしっかりと伝えました。

「上海を離れて、一人で南京に来て、はっきりいってとても寂しくなるときがありました。でも、この2日間という短い間で、平和というひとつの、同じ目標を持った方たちに出会い、素晴らしい先生のもと一緒に学ばせて頂くことができて、本当に嬉しかったです。そしてこれからも、劉成先生のもとで平和学を学びたいと思います。こんなわたしを仲間に入れてくださり、本当にありがとうございました。」
とお礼の頭を下げた途端会場からの思いがけない大きな拍手にわたしはおどろくと共に目頭がじーんと熱くなりました。

  101日から、中国は国慶節で一週間の長期休暇に入ります。私は、上海に戻らずここ南京の小さな自分の部屋で過ごすことにしました。集中力の高まるこの部屋で、一人で部屋にこもって、英語の勉強と、平和学の勉強をすることを心に決めたのです。

  弱音を吐くと、逃げてしまいたいと思うことも少なからずありました。住み慣れた上海の寮と、親しい友達、復旦の食堂、図書館。心地よい場所を離れ、一人で南京に来て、学校の前の小さなアパートに住み、ご飯は毎回「学生証を忘れました」と言って、歩いて25分かかる南京大学の食堂に向かう日々。まだ友達も少なく、これまで復旦で当たり前のように過ごしていた日々がとても恋しくなりました。

  でも、わたしは平和学を学ぶために、ここに来たのです。その平和学を、精一杯に学ぶことのできる環境と、素晴らしい先生がここにいる限り、私は諦めません。どんなに寂しくても。

  1月から、カンボジアにボランティアに行くチャンスをいただきました。そのチャンスをくださった、カンボジア在住のオーストラリア人EMMAとの出会いは、本当に貴重なもでのでした。彼女が中国を離れる前に言った,Emi、今度はカンボジアで会いましょう! Keep make peace !」という言葉を信じて、これからも前に前に進んでいきたいと思います。

101日 国慶節1日目。すっかり空っぽになってしまった宿舎から  吉永英未




2015.9 縦書き『ちいさな村の物語』
下のレポートをまとめました。

2015年8月
  
 夏休み(2) 私たち8人の夏がはじまった』-『音楽の授業ボイコット』他。

 夏休み(1) 2015・8『私たちの夏』のはじまり「支教とは・・・・」他

 20157
別れの7月 出発(たびだち)7

「時が過ぎるのはあっという間」という言葉はあまりにもありきたりだから使いたくはない。
でもその言葉以外に今は浮かんで来ることばが見つからない。

本当に、あっという間の一年間だった。

中国の7月は、日本にとっての3月。別れの時期(とき)である。

 73日は、大好きな先輩の卒業式だった。

8時、王章玉先輩から電話があった。「僕たち、卒業写真撮ってるから、えみもおいでよ。」

「今から? わかった!」まるでいきなりの電話に驚いたようなフリをしてみたが、連絡が来ることは分かっていた。なぜなら今日が、先輩と過ごす最後の日だから。

 卒業服に身を包んだ先輩たちは、一段と大きく見えた。

私は、玉先輩のカメラを首にかけて、学内の先輩たちの思い出の場所を一緒に回った。

学部から修士まで7年間過ごした彼らの学園への思い入れを、私には想像することしかできない。

図書館、学内のバス停、24時間開放している徹夜の257教室、毎日ゆで卵を買う売店、復旦タワーの向かいの美しい緑の広場。広すぎる学内を私たちは汗をかきながら回った。

 お昼ご飯を一緒にしたあと、先輩たちは卒業式に向かった。今年から規制が厳しくなり、卒業式の会場には本人と保護者しか入れなくなっていた。私は自分の部屋に戻り、着々と夜の準備を始めた。

 卒業式のあと、先輩方は大学を離れてしまう。とくに玉先輩は深という上海から遠く離れた街に行ってしまうので、今日が本当に、最後の日だということをみんなは言わずとも分かっていた。私は、お世話になった7人の先輩のために、卒業式の日は最高のおもてなしをするつもりだった。

 部屋に戻ると、初めてピザの出前を取った。

外でご飯を食べるのも良いが、私が上海で最初の誕生日を自分の部屋でたくさんの友達に囲まれて迎えたように、卒業式の日も同じように、わたしの部屋で先輩たちを温かく迎えたかった。

6時になると先輩方が私の部屋に集まって来た。私達はピザを食べ終わると、みんなんで丸くなってゲームを始めた。こういう時に仕切るのは、はやり玉先輩である。小さな部屋はたちまち笑いに包まれた。

8時になると、私たちはカラオケへと向かった。

今日は奮発して、すべてのおもてなしをしようと決めていた。

父とはあらかじめ打ち合わせ済みだった。「本当にお世話になった先輩なので、精一杯おもてなししてください。そのときはぜひ、お父さんのカードを使ってください。」

私は約束通り、父のカードを使って、カラオケルーム500(1万円)の支払いを済ませた。

 何度も乾杯しながら、私達は歌った。別れを惜しみながら。カラオケの最後、玉先輩が、博士課程一年の李先輩にこう言った。

「おれたちは卒業するから、あとはえみを頼んだぞ。えみが誰かにいじめられていたら、絶対助けるんだぞ。えみにいじめられたら、俺たちに言ってくれ。」冗談交じりでそう言った玉先輩の言葉から、優しさと切なさが伝わり、目頭が熱くなった。

私は先輩方にスポーツ服と手紙のプレゼントを渡した。遠くに行ってしまう玉先輩には、自分で編んだミサンガを渡した。

 別れ際、私は玉先輩と大きなハグをした。「做好自己。」玉先輩は私にそう言った。玉先輩がいつもわたしにかける言葉である。Make yourself.日本語では、「自分の道を生きよ。」と訳すことができるかもしれない。私の誕生日の時に玉先輩が贈ってくれたのもこの言葉だった。

玉先輩が北朝鮮に旅行に行ったとき、そこから送られてきたポストカードにも同じ言葉が書かれていた。「持做自己」。その簡単な一言に、先輩からの最大の励ましとエールが包まれていた。

厳しい指摘を受けることも、私の考えを鋭い論理で反論するときも、間違っていることを気づかせてくれたのも、玉先輩だった。

玉先輩は、私の言うことをすべて同意することはなかった。「えみの考えは素晴らしいと思うけど、ぼくは~だと想う。」いつもそう言っては私に立ち止まるチャンスを与えてくれた。

でも、そんな先輩が贈る言葉はいつも、「自分らしく生きなさい。」という言葉だった。それは、卒業して遠く離れて行ってしまうときも同じだった。

 「僕らがえみを送るよ。」そう言って、私が寮に戻るうしろ姿を先輩方が見送ってくれた。

先輩たちに背を向けて横断歩道を渡ったあと、私はまた先輩たちのもとに戻ってきてしまった。中国語には「舍不得」という言葉がある。「手放すのが惜しい。別れるのが惜しい。」という意味だと思う。私は、先輩たちが舍不得でたまらなかった。

先輩たちのいない日常なんて、想像できなかった。でもこれからは、先輩たちのいない中で、成長していかなければならない。大好きな先輩たちの卒業は、私にとって大きな試練だった。私は二度目のハグをすると、横断歩道の向かいに渡り、今度は走って振り返らなかった。

電話やメールでいつでも連絡ができるとはいえ、毎日会うことができないのは、やはり辛い。でも、それを乗り越えて強くなること。先輩方が残してくれたのは、かけがえのない思い出だった。これからどんなことがあってもくじけずに歩いていこうと決意して、私は涙を拭いた。

              
                    上海の風

 7月の第三週、私は風邪を引いてしまった。おそらく、クーラーからでてきたカビから感染した恐れがある、夏風邪にかかってしまった。最初は、喉の痛みから始まったのだが、その後熱や頭痛が襲い、大学内の病院に行った。「風邪」と診断されたが、調子の悪さはその後一週間続くこととなった。もともと行く予定だった杭州の研修も、欠席せざるを得なかった。

 しかし、ひとつだけ、絶対に成さなければならないことがあった。それは、南京に行くことである。私は、721日に南京大学の平和学の劉成先生に南京大学で面談をする約束をしていた。頭痛が治らないなか、私は72012時の新幹線で南京に向かった。

 駅に着くと友達の張くんが迎えに来てくれていた。荷物をユースホステルに置くと、張くんが南京の観光地を案内してくれた。途中で咳の発作があったが、じっとしているよりも汗をかいたほうが早く治ると聞いていたので、そのまま歩き続けた。

そして何より、南京に来たら治るんだ、治さなければいけないんだという気持ちが足を動かした。

 夜ご飯は南京大学老校区の食堂でで張くんにご馳走してもらった。南京大学老校区の建物はまるで、昭和時代にタイムスリップしたようだった。

市内の中心にある大学は、周りをビルに囲まれて、まさかここに大学があるとは想像もつかないところにある。1902年に建てられた南京大学は、時の流れを感じさせない古い建物が立ち並んでいる。時とともに瞬く間に変化していくのは、大学の周りの町並みの方だった。

 21日、前日は咳で寝付けず、頭痛とともに目覚めた。この日は、南京大学劉成先生にお会いする大切な日である。私は身支度を済ませ、地下鉄に乗った。上海と異なり、南京は蒸し暑い。地下鉄に1時間揺られ、南京大学新校区の地下鉄駅にやっと着いた。劉成先生と9時半にこの駅でお会いする約束をしていた。

私はというと、体調がすぐれない状態で、吐き気まで催していた。「今日は会えないかもしれない。」ということが頭をよぎったが、ここまできて会わないという選択肢はない。

 9時半、地下鉄の駅の前で初めて劉成先生とお会いした。先生は、「よく来てくれたね。南京大学へようこそ」と言ってくださった。「いまから学内を案内しよう!」劉成先生の案内のもと、私たちは南京大学新校区を見学して回った。

中国の大学はとにかく大きい。その大きさといえば、学内にバス停があることを想像して頂ければ分かるだろう。自転車などの手段がなければ、授業に間に合うことができない。

 きつい身体をじっと堪えて、わたしは笑顔でいるように心がけた。歴史学部は建てられたばかりで、すべての研究室も教室もからっぽだった。

9月には研究室も教室もすべて揃っているよ。授業が始まるから、すべて揃わないといけないんだ。」先生の研究室に案内され、何も空っぽの研究室の前で写真を撮った。歴史学部の見学が終わると、大学のホテルの下のレストランでお茶を飲むことにした。ここからが、私の重要なときである。

 ボイスレコーダーのスイッチを入れると同時に、私の中のスイッチも入った。わたしはまず自己紹介をした。その始まりは、中国では必ず聞かれる質問「あなたはなぜ中国で勉強しているのですか?」という質問の答えからだった。「2012年大連外国語大学に留学していたとき、尖閣諸島問題による日中関係の緊張を目の当たりにし、このままではいけないと考えて、中国の大学院に行くことを決意しました。」

 私が自己紹介を終えると、今度は劉成先生が自己紹介をしてくださった。劉成先生は、2003年にイギリスに留学した際、平和学という学問に初めて触れ、この学問を中国で発展させたいと思い、中国では初めて、南京大学で平和学という授業を開講した。現在は国連平和学会に出席したり、中国国内で平和講座行っているほか、平和会議のために日本にも何度か訪問されている。

 わたしは、あらかじめ用意していた質問をひとつずつ聞いていった。劉成先生は、分かりやすく丁寧に答えてくださった。

お昼になると、「僕にお昼をご馳走させてね」といって、食事を挟みながら交流を続けた。

優しくて親切な先生は、私の心の壁をも溶かしていった。私が、自分の体調がすぐれないこと、いままで見られない症状があり、自分が重い病気になったのかもしれないと心配していることを話すと、「病は気からだよ」という言葉からはじまり、私を励ましてくださった。

「ガンかもしれない。と疑ってたら本当にガンになるよ。あなたの症状を聞くと、そんな重い病気にかかっているとは思わないよ。」その言葉を聞き、安心した。

 7月14日に引き始めた風邪は、一週間後に腕の筋肉が痛くなる症状から、これは大変な病気かもしれない、と判断したわたしは、大学の友達の言うとおり、上海に帰ったら一番に病院に行こうと決意していた。しかし、不思議なことに、劉先生と話していると、頭痛や吐き気、風邪の症状がどんどん和らんでいくのが分かった。

 「病は気から」。湖南省での2週間の支教を迎え前のプレッシャーと、3万字の期末論文、大好きな先輩との別れ、バドミントンはする気にもなれず、毎日部屋に閉じこもって終わりのない論文と向き合う日々が続いていた。

奨学生として復旦大学に留学していることは、前者以上の責任として重く肩にのしかかっていた。気づかぬうちに自分を追い込み、風邪を引くと、メンタルの弱っていた私にはたちまち大きな負担となってしまった。

そんな自分の背景を、劉成先生と話して初めて客観的に見ることができた。そして、午後2時までに及んだ劉成先生の面談のあとは、なぜか肩がとても軽くなり、笑顔も見せられるようになっていた。その変化に、自分でも驚き、嬉しくなった。

 面談の最後、劉成先生は「926日南京大学で国際青年平和学講座があるので、あなたもぜひ参加しなさい。」と言ってくださった。私は嬉しくてたまらなかった。その他にも、ここでは書き切れないが、中国で平和学を学ぶ私にとって、その大きな一歩となる今後のチャンスをたくさん頂くことができた。駅まで送ってくださった劉成先生に9月に会いましょうと別れを告げて、私は大学を後にした。


 一泊1000円程度のユースホステルは、世界各国にある。

その地域ごとの特色があり、バックパッカーたちが集まるホステルは、必ず仲間と出会うことができる。

私は、中国国内を旅するときはもちろん、アメリカでもユースホステルを利用していた。6人部屋に戻ると、昨夜出会った友達が「今日はどこに行っていたの?」とすぐに聞いてくる。まるで家のような温かみを感じる。私が日本人ということを、全く気づいていなかった彼女たちに、「あなた(中国の)どこ出身?」と聞かれると、私はいつも「どこ出身か当ててみて」と言ってみる。

「発音を聞くと、たぶん南の方だと思う。海南島?」など、大抵の場合中国の南や台湾などと言われる。どきどきしながら、最後に私が日本人だということを伝えると、びっくりして、今度は日本に移民した中国人なのか、家族に中国人がいるのかと聞いてくる。私が、生まれも育ちも家族も日本だと伝えると、彼女たちは口をあんぐり開けていた。

 友達になると、相手がどこの国の人か、どこの出身か、そんなことはどうでもよくなる。私たちは仲良くなると、美味しいレストランの話をするし、好きな男の人のタイプも聞き合う。困っていたら助け合うし、嬉しい時は一緒に涙を流して喜ぶ。友情に国境がないこと、愛に国境がないことは、身を持って学んだことである。

 721日、劉成先生に励ましをいただいた私は、改めて元気を取り戻した。午前中南京大虐殺記念館を訪れ、午後は南京大学の友達と中山陵を訪れた。地下鉄やバスでの移動中は立ってでも寝られるようになった。そしてなぜか目的地に着く一歩前で目が覚めることができるのである。

  今回は、復旦のクラスメイトから南京大学の友達を紹介してもらい、私の南京の旅をサポートしてもらった。一緒に観光地を回ったり、南京料理をご馳走してもらったり、「友達の友達」にとても親切にしてもらった。

大学付近で遊びに夢中になっていると、時計が午後5時15分を回っていることに気づいた。午後6時上海行きの新幹線に乗らなければならなかった私は友達の付き添いのもと、急いでタクシーに乗り込んだ。しかし、ラッシュアワーでタクシーは渋滞で動けなくなり、今度はタクシーを降りて地下鉄に乗り換えた。555分に新幹線に滑り込んだわたしは、ほっとして席に座ると列車が走り出す同時に眠りに落ちてしまった。

 たった1時間40分で上海と南京を結ぶ高鉄。上海の夜景を見ると改めてひとつの都市を越えてきたことを実感する。私は今、世界で有数な経済大都市上海にいるのだ。上海の風が、「がんばれよ。」と言って私の背中を押しているように感じた。

 

吉永英未という存在

 中国では、Wechatが日本で言うLINEかつブログのような存在で、ほとんどの中国人が使用している。

そのWechatで、わたしは今学期の終わりに自己紹介と自ら書いたエッセイを載せて投稿した。

すると、たくさんの方にシェアしていただき、2015725日の現在で閲覧数3328、いいね!127、シェア数22となっている。コメントもたくさん頂き、「あなたのブログを見て感動しました。ぜひ応援させてください。」と中国各地から友達申請が届く日が続いた。自分の予想以上にたくさんの方に吉永英未という存在を知っていただくことができた。

 夢を叶えるために、たくさんの人に自分について知っていただき、自分の夢についてより多くの人に知ってもらうことは、とても大切なことだ。いまでは、私が「私の夢はね、、、」と言うと、「世界平和でしょ。」と初めて会った人も私のブログを見たひとはそう答えてくれる。

 Yahooで「復旦大学」と検索すると、自分の日記が出てきたり、百度(バイドゥ)で「吉永英未」と検索すると私の書いたエッセイが表示されたり、目に見えない様々な方々に支えられて、応援されて生きていることに気づく。

 自分の夢は、自分にしか追いかけられない。(ジタバタと)地面を足踏みすることも必要。そこから一歩踏み出すことでチャンスを生み出し、それを掴み取ることができる。それがいちばん肝心なことなのだと思う。

チャンスを掴めるか否かで、その後の人生も大きく変わってくるにちがいない。 でも、ジタバタ足踏みをしている間はとてもつらい。自分が成長しているのかどうかが分からなくて、このままではいけない、と自分を何度も責める。

・・・・・・私はこの半年、この足踏みにとても苦しんだ。

しかし、いつか必ず、その泥沼から抜け出すことができる。蓮の花は、その水が汚ければ汚いほど、濁っていればいるほど綺麗な花を咲かせる。

はまってしまった泥水が濁っているほど、そして深いほど、次の一歩の可能性は限りなく大きい。

 苦労の上に努力を重ねて、その辛さを人に見せることなく、綺麗に前を向いて咲く蓮の花は、美しい。

私は、夢を叶えるために、この世に生まれてきた。だから、夢を叶えるために全力を尽くしたいと思う。湖南への出発を前に、私は一生夢を追いかけ続けることを決意し、言葉にしておきたい。人生はどれほど長く生きたかではなく、どんなに真剣に一生懸命に生きたかである。それならば、私は、泥水の中で美しく咲く蓮の花のように生きたい。

726日 吉永英未

《今後の予定》

727日 寝台列車で19時間湖南省怀化支教地区(貧困地区)

728日~812日 支教

812日~814日 湖南省見学

815日~長沙から列車で上海へ

818日 テレビ収録 在中国日本大使館 日本人留学生と日中関係

     日本人留学生として日本領事館で日中学生による討論会のテレビ  

     取材を受けることになりました。            

819日 鹿児島へ帰国

92日 上海へ戻る 研究生2年生一学期開始

 

 727日からの半月は、中国語では「支教」と呼ばれる、中国の貧困地区で子供たちに教育を提供するボランティアに参加します。学校の宿舎に子供達と住み、一緒に過ごします。私の支敷場所は国家重点支教地に指定されている、中国で最も貧しい地区のひとつです。

 支教に参加し、中国の貧困地区の子供たちのために微力ながら自分の力を尽くすことは、中国に留学中に行いたい事のひとつでした。厳しい体力テストと面接を通過して、復旦大学代表として毎年支教を行っている小学校に派遣されます。

私達は全員で8人のグループです。私は副リーダーになりました。過酷な環境の中で過ごす2週間にある程度の覚悟は出来ていますが、どんなところなのか、行ってみなければわかりません。でもきっと、どんな困難も8人で乗り越えていきたいと思います。

 また、現地ではインターネットに繋ぐことが難しいかもしれませんが、チャンスがあり次第ネットに繋いでみたいと思います。

 

 それでは、鹿児島にいらっしゃる方は鹿児島でお会いしましょう!日本の皆様、暑さに負けずに、一日一日幸せな日々をお過ごしください。

 

                         吉永英未より

 



勇気と感謝の卒業旅行 西安の旅 ①

 

 614日から19日まで、わたしは西安の旅に出ていました。

14日の午後4時半に大学の北門に集合し、他の先輩合わせて4人で上海駅に向かいました。

そして、午後6時半発西安行きの寝台列車に乗り込みました。上海から西安までは14時間です。
3段ベットのうち、私は真ん中のベットでした。初めは4人でトランプを楽しんでいたのですが、シャワーを浴びてきてから来た私は習慣的にすぐに睡魔が来て、9時にならないうちに眠りに落ちてしまいました。

そして翌日の朝10時に、列車は西安に着きました。本当に、「ひと晩寝たら西安に着くよ」という先輩の言葉の通りでした。西安に着くと、もうひとりの先輩、王章玉先輩が私たちを迎えてくれました。これで、私たち5人すべて揃いました。

 今回の旅は、「卒業旅行」です。というのも、私以外の4人の先輩は大学院3年生で、73日に卒業式を迎えます。ということで、先輩方は、「西安→成都→貴州」に行く旅行を計画しました。

西安は王章玉先輩(以下玉先輩)の故郷で、貴州は李松先輩の故郷です。私は授業がまだあったため、西安のみに行きました。

 卒業旅行のメンバーは、7月から正式に百度という中国の検索サイトで働く周帆,劉青、同じく上海の車関係の会社で働く李松、そして香港のとなり深で働くことが決まっている王章玉先輩と私の5人です。

王章玉、李松、青先輩とは、去年の9月に私が初めて復旦でバドミントンをした日に出会いました。

5年ぶりにラケットを握り、とっても嬉しくて興奮してバドミントンをしているとき、後ろのコートでバドをしている三人に出会い、一緒に楽しみました。

その日の夜に連絡先を登録し、それからほぼ毎週誰かがコートを予約すると一緒にバドを楽しんでいました。

 そんなわけで、彼らとの関係は非常に緊密で、なんでも話せる、お互いに深く信頼する関係を築いてきました。今回の旅行は、そんな彼らと一緒に弾けて遊ぶことができる、卒業前の最後の機会でした。

 西安駅は、スリがとても多いと聞き、私はリュックを前にからい、注意していました。しかし、スリに遭う暇もなく、西安人の玉先輩にあるとすぐに駅を離れ、最初の観光地へと向かいました。

 西安は、世界四大古代都市のひとつです。西省に位置し、3100年の歴史を有します。兵俑,清池,大小雁塔,法寺などがその深い歴史を代表します。

 私たちはまず「回民街」でたくさんの小吃を体験しました。小吃とは屋台や出店などで食べる安くて軽い食事で、中国全土にあり、その土地それぞれの美味しい食べ物が並びます。

西安はとくに有名で、辛いものから甘いデザートまで、たくさんの美味しい物を食べ歩きすることができます。私たちはこの通りで10種類以上の美味しい食べ物をみんなでつまみながら楽しみました。

 論語の中には、「有朋自方来,不亦」ということわざがあります。親友が遠いところから訪ねてきて、その嬉しさは言葉で現しようが無い。

中国人は、遠いところから訪ねてきた来た友達を心を込めておもてなしします。私は玉先輩の熱心なおもてなしに、このことわざの意味を心から実感し、中国のおもてなし文化を学びました。

 西安に着いたその日から帰りの空港に着くまで、私はほとんど財布を開いていません。というのも、4人分の食事代、ホテル代、交通費などの費用は、5日間すべて玉先輩が負担してくださったからです。

私がお金を払おうとしても、「ここは僕のふるさとだから、僕に払わせて。」と言って、一度きりも出させてくれませんでした。申し訳ないと思いつつも、一生懸命ガイドを努め、私たちに西安を思いっきり楽しませてくれた彼の精一杯のおもてなしに感動するばかりでした。

 夜は、先輩方4人は玉先輩の家のすぐそばのホテルに泊まり、私は玉先輩の家にホームステイすることになりました。玉先輩のお父さんの目は、慈悲という中国語の言葉しか思い浮かびませんでした。彼のお父さんの目は、本当に優しい目をされていました。

 玉先輩は、私が人間としてとても尊敬している先輩です。彼の思いやり、学習、研究に対する態度、道徳心などは、私が本当に心から学びたいものばかりです。

彼のうしろ姿から本当に多くのことを学ぶことができます。私はこの一年足らずで、彼からたくさんのことを学んできました。それは学習に対する情熱だけでなく、友達への接し方、どのように自分の生活に向き合っていくかなど、数え切れません。

そんな彼と接することができる最後の機会だと思い、今回の彼のふるさとへの旅に参加することを決意しました。

 王章玉先輩は、とても思いやりに満ちた人です。私が、母の病気のために鹿児島に帰ることになったとき、何も言わずにご飯に連れ出してくれました。帰国の日、朝5時に起きて空港行きのバス停まで送ってくれたのも彼でした。

 また、一緒にバドミントンをしていたときのこと。自分よりも上手ではない人たちが「一緒に打ってくれないか?」と訪ねて来たとき、私は彼の前でお断りしました。心の中で、「自分より上手くない人と打っても成長できない」と思っていたからです。

彼らがコートを離れて行くと、玉先輩は私にこう言いました。「自分よりも強い人と打ちたいえみの気持ちは十分に分かるよ。僕は昔バドが本当に下手だったんだ。でも上手なひとが僕と一緒に打ってくれて、そしてここまで成長できた。」わたしは、その言葉にはっと気づかされました。

そして恥ずかしさが込み上げてきました。わたしは、復旦に来てからバドミントン大会では3位、2位、2位という成績で、女子シングルスではほとんど負けたことがありませんでした。普段も男子と競い合うことが多く、自分が天狗になってしまっていたことに気づきました。
玉先輩の言葉にはっと気づかされたわたしは、羞恥心を感じ、一緒に打ってくださいと誘ってくれた方に本当に申し訳ない気持ちになりました。その日の夜深く反省し、これからはどんな人とも一緒に打とうと決心しました。

 玉先輩は、勉強面でもとても尊敬している先輩です。西安で彼のお母さんにお会いしたとき、彼のいないところで玉先輩の中学、高校時代の秘話を聞きました。中学時代彼は保健委員を務めながら、成績は毎回学年2位だったそうです。

いつも二位なので、「老二」というあだ名が付いたほどです。それが悔しかった彼は、中二のときからまた一層努力し、二年生の後半から全学年で一位を取ったそうです。高校は実家を離れ、西安で一番の高校で寮生活を送りました。

周りの生徒と違い、英語の塾に通ったことの無かった彼は、英語能力が足りないと思いました。そのとき幸いにも、担任の先生が英語の先生で、その先生にお願いし、教室の鍵を借り、毎朝6時に教室に着いて英語の朗読を始めたそうです。

英語の成績も少しずつ向上し、苦手科目から得意科目へと変わりました。高校では班長も努め、自分に自信も付きました。そして18歳の夏、復旦大学に入学しました。

 玉先輩の祖母(父方)は有名な科学者で、彼のとても尊敬している存在でした。従兄弟は6歳年下で現在清華大学の一年生です。この従兄弟を彼はとても可愛がっており、従兄弟自身も幼い頃から優秀な玉先輩の影響を受けてきました。

勇気と感謝 西安の旅 ②華山登り

 

 二日目の朝、私達は玉先輩のお父さんの運転で、華山へと向かいました。目的はもちろん、登山です。華山は中国五大山のうちのひとつで、一番危険な山と言われています。

ホテルで休憩を済ませ、山の麓で西で有名な麺をお腹いっぱい食べ、リュックを背負い、午後7時、小雨の中私たちは登山を開始しました。山の麓から、チケットを買う登山口まで1時間近く歩きます。

私たちは、同音漢字ゲームをしながら登り始めました。この中国語の漢字ゲーム、私は3つ同音漢字を思いつくのが精一杯でしたが、彼らは4人でその同音漢字が無くなるまでそのゲームを続けていました。

 中国で一番危険な山と言われている華山は、毎年転落事故などが起きています。他の4人はしっかりと心の準備が整っていたのに比べてわたしは実感があまりなく、山東省にある泰山に登ったことがあったため、ほぼ同じレベルだと思っていました。

 海抜2000メートルの華山は私の想像を遥かに超えたものだということを、実感したのは、90度の石の壁を目の前にしたときでした。天梯(天の階段)と呼ばれるこの石の階段は、90度で、小さな足の踏み場が一歩置きにあり、横に鎖でできた手すりがあるのみです。ほぼすべて腕力とこの小さな足置きに頼り登って行きます。

 わたしはその壁を見たとき、開いた口がふさがりませんでした。これは人間が登っていけるものではないと思ったのが最初の感想です。貴州出身の松が先頭に登って行きました。先輩方が私を真ん中にして、前後で援助する体制でした。

わたしは4歩登った時点で怖くなり、また私の腕力では登ることのできないと判断し、泣きそうになりながら後退をし始めました。

玉先輩は私の足元で、「えみ、こんなとき勇気が一番大切なんだよ。この試練に耐えることができたら、他のどんな厳しい道も進んで行ける。本当に諦めるの?」と聞きました。私は半分泣きながら「諦めるから降ろして。」と言いました。

先輩方は残念がりながら、私を残して登って行きました。私は、隣にある安全な道を登り、先輩方と石の壁の上で合流するつもりでした。

 諦めて地上に降りたわたしは、私以外の全ての先輩が無事に石の壁を登りきったことを確認すると、トイレに向かいました。

4歩登っただけでしたがその緊張で胸はまだ、どきどきしていました。私はトイレでじっと考え、トイレを出たときにある決意をしました。

 「ここで諦めたくない。登りきるんだ。みんなと一緒に。」石の上で待つ先輩方に私は叫びました。「わたしも今から登ってくる!」先輩方は思わず動揺してしまいました。

「ちょっと待って。早まらないで。」先輩方はまさか私がトイレに行ってから考えを変えて登ってくるとは思いもしなかったようです。

「ひとりで登るのは危険だから、早まらないでちょっと待ってて!」と言って玉先輩が降りてきてくれました。彼が私の下から登り、万が一落ちた時に支える役をしてくださいました。

私は一歩ずつ、一歩ずつ、天の階段を登り始めました。90度のため、石の上は全く見えません。下は怖くてもっと見れません。私は深い息を吸って、ゆっくり、ゆっくりと登り始めました。

上からは3人の先輩方が応援し、下では玉先輩が励ましてくれています。そしてついに、天の階段を上りきりました。先輩方と手を取り合い、私達は喜び合いました。

あの時の感動は、これからも忘れることがないと思います。もしもあのとき、上と下からの先輩方の支えがなければ、私はきっと90度の崖の階段など登りきることが無かったでしょう。

心から、励ましてくれた仲間を愛おしいと思うと同時に、言葉で現しようのない達成感を味わった瞬間でした。

 その後、途中休憩を挟みながら私達は比較的速いスピードで登り続けました。

登る途中は霧が深く、山の上では霧が足の下に見えました。暗くて下が見えなかったため、高所による怖さは感じませんでした。やっと山の頂上についたのは、深夜3時でした。私たちは、山の頂上で夜空いっぱいの星を見ました。

教科書で見る北斗七星や、流れ星もはっきりと見ることができました。石の上に座りながら、綺麗な星たちを長い間じっと眺めていました。

 日の出を前に、私たちは頂上の一番日の出の見える位置に移動しました。このとき、気温はとても低く、風もあり、みんなコートを着て肩を寄せ合って日の出を待ちました。疲れで眠くなり、静かな夜にウトウトしてきました。

そのとき、わたしは、眠ったら風邪をいてしまうと思い、物語を語り始めました。

『あるところに、女の子がいました。女の子には3歳年上のお兄ちゃんがいました。小さい頃から女の子はお兄ちゃんの後を付いて遊んでいました。

女の子は、お兄ちゃんを兄として尊敬することがなく、いつもわがままを言っては喧嘩していました。

しかし、女の子のお兄ちゃんは思いやりに満ちた人でした。ある日女の子がまだ小学生だったとき、兄妹二人で歌手のコンサートに行きました。

そのとき、人ごみの中、兄妹二人は小さすぎてステージがまったく見えませんでした。

お兄ちゃんは、自分は他のお客さんの背中だけを見て、2時間妹を肩車して、女の子にステージを見せてくれました。

女の子は大きくなって、お兄ちゃんの優しさと思いやりにやっと気づいたのでした。でもそのときお兄ちゃんは遠く離れたところで働き始めていました。』

 私が物語を語り終えると、聞いていたみんなから温かい言葉をもらいました。

すると玉先輩、劉先輩とみんな自分の家族について語り始めました。そうしているうちにあっという間に、夜が明けてきました。

残念ながらこの日、前日の雨で霧が厚く、日の出を見ることができませんでした。しかしこの日の夜明けまで自分についてお互い赤裸々に語り合えたことは、一生の友情の宝物になりました。

 周りが明るくなり、朝食をとり終えると8時から下山を始めました。

今度は命綱をつけて山の頂上からもうひとつの山に降りていくという試練が待ち構えていました。

わたしは、前の人の頭だけが見えて足元が見えないという崖を降りていく姿に腰が抜けてしまいそうになりました。

わたしはこんな命知らずな山移りなどしたくないと心の中で思っていましたが、好奇心旺盛な先輩方に挑戦しないという選択肢はありません。

真ん中に挟まれて、わたしも同じように命綱をつけて降りて行きました。

今回は、夜も明けて山がはっきりと見えるので、一層恐怖心が増しました。

そして2000メートルの山の上からはもはや地上を見ることができず、落ちたらどうなるかと想像するだけで生きている気がしませんでした。

前を降りていく先輩が次にどこに足を置いたらいいか教えてもらい、生まれて初めてつけた命綱の二本の鎖を一つずつ慎重にはめ変えて、降りて行きました。神様に無事を祈りました。

 なんとか隣の山に着くと、そのてっぺんから雄大な山を見下ろしました。

勇気を振り絞った人にしか見えない光景です。2000年前もこの山を誰が登り、この道を築いたのだと思うと、足は震えながらも、心から感銘を受けました。

 8時から下山を始め、山の麓についたのは午後2時でした。

 華山登りは、23年間の人生のうちで一番「険しい」に挑戦した山でした。

足の筋肉痛の痛みは今まで経験したことがないものでした。

しかし、全身の疲労以上に大きなものを得ました。それは、勇気と、信じることです。

これらふたつの言葉は、言うことは極めて簡単ですが、実行することは決して容易なことではありません。

一度登ることを諦めた90度の階段に、もう一度挑戦し登り終えたとき、4人の先輩は感動し、みんな「えみ、すごいよ。よくやったね!」と言ってくれました。

上と下にいる仲間を信じて登って降りた崖は、決して一人では乗り越えることのできないものでした。
でも、信じることで、自分の能力以上の勇気を発揮することができ、全ての試練を男子の先輩方と同じように完成することができました。

この経験は、私にとって、とても大きな自信へを変わりました。5人で手を取り合って登った華山のことを、これからも一生忘れることがないでしょう。

10
年後にまた登ろうと決めた私達は、きっと、この華山に戻ってくる日が来ると思います。

勇気と感謝 西安の旅③―超えられない壁は無い

 

 華山からバスで2時間のところにある華清池で、夜は長恨歌という歴史劇を見ました。

露天で見るステージの背景はなんと山。山にはライトが散りばめられてあり、夜を表現する時には山に月と星が浮かび出します。玉先輩のお父さんの知り合いの関係で、前から三番目の真ん中で見ることができました。

水あり、炎あり、迫力満点のステージでした。

 最終日の三日目は兵俑を見に行きました。前日の山登りに疲れきってしまい、いつもは早起きのわたしも先輩の出発の電話でやっと目が覚めました。その日の朝食のとき、玉先輩が私に、大切なことを教えてくれました。

 『昨日のえみの頑張りはすごかった。僕らの前で、天の階段を登りきったとき、僕らみんな本当に感動したよ。あれは100回プレゼンテーションをして自分の成果を人に見てもらうよりも、ずっとすごい勇気をみせてくれた。

そして、バドミントンや、夏休みのボランティアも、課外活動に取り組む姿、その体力は僕らみんなが認めている。でも、』

 ここからわたしは深く考えさせられるのです。玉先輩とは関係がとても良いため、先輩の思っていることを率直に教えてくれました。

『でも、勉強については、本当に努力が必要だよ。』

『中国の古代皇帝の名前や、世の中で常識と呼ばれるもの、道端で肉まんを売っているおばちゃんだって答えることができる。えみは?』

「答えられない。」

『この前のえみのプレゼンの資料を見せてもらったけど、あの内容だと誰でも作ることができるよ。

本当は、A4一枚の資料を書くために、10冊の本を読まないといけないんだ。

そうして、自分が得たもの、感じたもの、発見したものをやっとたった一枚の紙にまとめることができる。

えみの発表した内容は、僕らがちょっと調べただけでもしることができる。

えみの発表を聞くまでもないよ。厳しい人なら、時間の無駄だというかもしれない。

えみは、もっと真剣に本を読んで、しっかり研究する必要がある。自分がどんな専攻であっても、歴史は必ず学ばなければならない。』

『平和を語るのは簡単だけど、なぜこれまで平和が築けていないのか。過去の人はなぜ成功できなかったのか、知っている?』

 わたしは、自分が恥ずかしくなったことは言うまでもありません。

わたしは玉先輩からの忠告とアドバイスを、この日の朝から一日考えていました。

夢にも出てきました。玉先輩は、私の核心をついていました。私の欠点を見通していました。

こんなに長い付き合いであれば、当たり前と言えばそうなのかもしれませんが、率直に私の学習面に対する不足を指摘されたのは、初めてのことでした。わたしはただ、頷くだけでした。

 あとから、劉青先輩が励ますように私にこう言いました。

『えみは、中国人学生と比べる必要は無いよ。勝てっこないんだから。でも、えみには有利な点がある。ふたつの丸が横に並んでいるとする。その丸の交じり合うところ、そこに焦点を当てることができる。それは重要なところだよ。』

つまり、ふたつの円が交じり合っているその部分、日中の交じり合うその部分に焦点を当てて研究することに大きな意味があるということであるということだとわたしは受け取りました。

 最終日の夜、4人の先輩方はこう言いました。

『えみがどんな選択をしても僕たちはえみのことを応援してるよ。』

 復旦に来て、興奮し、挫折を味わい、努力もして見せましたが、到底他の学生には付いていけなくて、かと思うと、自分はこの程度で良いのだと諦めて、そしてまた立ち止まって、ここまで歩んできました。

そんな私を、励ましてくれたのはやはり同じ大学で学ぶ先輩方やクラスメイト、そして指導教員の馮先生、日本にいらっしゃる方々でした。

 修士一年生の終了を間近に控えたこの「卒業旅行」は、私にとってとても大きな意義のあるものでした。

それは、尊敬する先輩方と過ごす最後の5日間でもあり、自分の限界は自分で決めてはいけないのだということを身を持って学んだ5日間でした。

超えられない壁は無い。それは山登りも学問も同じだということ。私は、これまでの自分を振り返り、深く反省し、もっと努力しようと決意しました。

それは本当に簡単ではないし、高く険しい壁であることは確かです。でも、私はひとりではなくて、登る過程で、必ず誰かが下から支えてくれている。山の上では必ず誰かが応援してくれている。

山の頂上ではきっと、異なる景色を見ることができる。だから私は勇気を出して登ることができるのです。

 私の努力が十分ではないということ。ならば、成長の空間がまだあるということ。私はこれから一層、努力していきます。そして、ここ復旦大学で一生の親友に出会えたことに、心から感謝し、今回の日記の結びとさせていただきます。

2015620日 端午 吉永英未





夢のバトン

 復旦大学の110回目の誕生日であった527日は、大学にとって、卒業生や、私たち在学生にとって特別な日となりました。

 1905527日、中国の著名な教育家馬相柏氏によって、復旦大学は創設されました。北京大学、清華大学に続く国家重点大学の一つとして、博学而志,切而近思という校訓のもと、復旦大学の歴史は始まりました。 キャンパスは合わせて4つあり、2014年現在,旦大学の学部生は12933人,研究生1626人,留学生3216人です。

 2015527日記念日の朝、620分から国旗掲揚に参加しました。

会場の広場では、朝早くにも関わらず、みんな大学シャツを着て、学長の登場と国旗掲揚待ちどうしそうにしていました。私も国際関係学部の先輩に電話で起こされてから、眠い目をこすりながら、新しく買った大学のTシャツを着て会場駆けつけました。

 7時から、そわそわした会場に力強い足音が響きました。

復旦大学武警班の青年たちが足取りを揃えて、大学の旗を掲げて行進してきます。

背景には合唱団による校歌が大学のオーケストラによる演奏のもとで歌われ、雰囲気は最大に盛り上がりました。

 同じ527日の午後、上海日本人学校の学生44名、引率の先生4名が復旦大学の見学に訪れました。先輩に頼まれた私は、日本人留学生代表として、97年生まれの高校三年生を前に、プレゼンテーションと大学案内を行いました。

 高校三年生の彼らに向けたプレゼンは、Story of My Lifeという、学部時代に何度も発表したことのあるものです。学生と先生方からは大きな拍手をいただきました。

   夜は、正大体育館という大学で一番大きな体育館で行われた「校庆晚会」(記念イベント)に行きました。歴史学部にチケットが配られ、幸運にもそのチケットを2枚手にすることができた私は、国際関係学部の公明先輩と一緒に見に行くことになりました。

いつもバドミントンを楽しむ体育館が、その日の夜は盛大なステージが設けられ、会場内はライトアップされ、普段の面影を少しも残さないように全く変身してしまった姿に、もうすでに圧倒されてしまいました。

 舞台は片時も目を離せないほど、素晴らしいものでした。

同じ会場には、学長もいらっしゃっていました。

ライトと大学の旗が配られ、私自身も始終ときめきながらステージを楽しみました。

ステージに登場したのはすべて復旦大学の学生及び卒業生です。

復旦大学附属小学校の子供たちによる寸劇と歌から始まりました。

50年前に卒業された方々によるステージでは、復旦大学時代にであった二人が結婚して50年経ち、当時の学生恋愛の様子を語る場面もあり、会場は温かい笑いに包まれました。

 私が一番感動したのは、世界から送られてきたビデオレターです。

世界各国で活躍する「復旦人」の方々が、この日会場に駆けつけることができず、ビデオレターに想いをのせて「復旦大学、誕生日おめでとう!」というメッセージを送ってくださいました。

世界各国の背景のもと、大学の旗を持った卒業生たちが大きなスクリーンに映し出されました。

フランスはパリのエッフェル塔、ワシントンDC、ロンドンブリッジ、アフリカ、カナダ、オーストラリア、韓国、そして日本は東京大学を背景に、世界に散らばる復旦人からのメッセージがです。こんなに遠くに離れていても、どんなに時が経っても、大学を愛し、大学に感謝し、この日のために大学の110回目の誕生日を祝う姿にわたしはとても感銘を受けました。そして改めて、わたしも世界で活躍できる「復旦人」になりたいと心に誓いました。

 ステージの最後には、子供からおじいさんおばあさんまで、華やかなドレスに身を包んだ復旦人の方々と、会場にいる私たちも立ち上がり、校歌を歌いました。当日はたくさんのテレビ局も来ており、その溢れんばかりの活気は会場に来れなかった人たちにも生放送で届けられました。

 私と公明先輩は、余韻に浸りながら、帰路に着きました。帰りにライトアップされた復旦タワーを眺め、私もこの大学のために何か残すことができたら、どんなに光栄なことだろうと思いました。復旦生であることを改めて誇りに思い、復旦精神を受け継いでいきたいと心から思いました。

 

金曜3限国際関係授業発表

 529日は、私にとって忘れられない日となりました。

わたしはこの日、学科を越えて受けている国際関係の授業で、はじめてプレゼンテーションを発表しました。

 ひとりで、1時間半の発表。はじめは、「一人で1時間半も話せるはずがない」と全く自信がなかったのですが、1ヶ月以上に渡って準備してきたので、プレゼンのページは自己最多の117ページとなり、内容的にも十分な量を用意することができました。

 私はこの発表に、1年間の中で一番力をそそぎました。というのも、もともと学部の専攻が国際関係、平和学であり、これらはわたしにとって一番興味のある分野であるからです。内容は、私の卒業論文の序章の紹介から始まりました。ここでも少し紹介させていただきたいと思います。

 全てのことを、当たり前だと定義してしまうとそれは「当たり前」になってしまう。全てのことを「変えられない」と諦めてしまうとそれは「変えられない」。

  第二次世界大戦、そして冷戦が終結した現在もなお、世界では戦争や紛争が続いている。今日もまた、罪のない市民が死んでいく。住む場所も、食べるものもない人達は難民となり、自国すら追われる。そんな現状を知りながら、私たちはそれらの国から遠い日本という国に暮らしている。 

  果たしてこの現実は、「当たり前」なことなのだろうか?「変えられない」からといって諦めて良いのだろうか。もし私が戦争の脅威にある国にいたら、貧困や抑圧に苦しんでいたら、私は助けを求めるだろう。誰かが助けてくれるそれだけを希望に命を繋ぐだろう。それはもしかしたら、国連かもしれない。警察かもしれない。それはNGO団体かもしれない。いずれにしても、救いの手を差し伸べるのは、人間に変わりはないだろう。そして私は自分がその人間の一人でありたいと思っている。

  もし我々がこの現状を変えられないとしたら、それは我々がこの現状を「当たり前」と決めつけているからである。我々には「変えられない」と諦めているからである。 

 この文の中国語訳から始まったプレゼンは、21世紀の世界、911、イラク戦争、尖閣問題、琉球処分、平和学、憲法第9条、暴力に対するセルビア声明、質疑応答という形で行いました。これらの内容の関連性は本文で触れます。

プレゼンの途中では、先生の解説が入ったり、中国語読みが分からなかったときは、直接目の前に座っていらっしゃる先生に尋ねて、プレゼンを進めました。

 発表の後は、みなさんから大きな拍手をいただきました。

感想では、「新しい観点から見たあなたの発表がとても新鮮でした」「僕たちが知らないことも多くて、とても勉強になりました」「平和学という学問は、中国であまり発展していないから、あなたの発表はとてもいい刺激になりました」などの言葉をいただきました。

最後は、戦争はどうして終わらないのか、平和をどうやって築いていくのか。一番の安全保障は何か、国際関係学部博士課程の皆さんに問いかけ、先生の手引きのもと討論を行いました。

          国際関係学部クラス会

 発表の後、先輩と一緒に歩いていると、「今日は僕たちのクラス会があるから、えみもよかったらおいでよ。」と言われました。

私は思わずびっくりしてしまいました。「私は国際関係学部じゃないけど、それに博士課程じゃないけど、いいのですか?」と聞くと、「こんなにたくさん一緒に授業を受けてきて、もうえみは僕たちのクラスメイトの一人だよ。」と言ってくれました。その言葉がとても嬉しかったです。

 そんなわけで、私は復旦大学国際関係学部博士課程一年生の方々と一緒に、クラス会に参加することになりました。一度寮に戻ってから着替えを済ませて、5時に集合すると、先輩方と自転車でレストランに向かいました。

先輩の中には、学部を卒業すると働いて、その後また修士、博士過程を履修している方や、働きながら論文を書いている方などで、年齢は私より大きく離れています。

 6時頃から乾杯し、食事を始めたのですが、ここでは中国のお酒文化を存分に勉強することになりました。机には2本の白酒と、8本のビールが並べられました。

私は、この日初めて、アルコール度58度という白酒を飲みました。皆さんが、私を歓迎して一杯、というときに私が飲まないわけにはいけません。

とても小さなグラスのコップに、3センチだけ注がれた白酒に、最初はこんなちょっとしかないのか、へっちゃらだ。と思ってぐいっと飲み込んだのですが、あまりの度数の高さにわたしはむせ返ってしまいました。

 食事の途中で、男性の先輩方が一人一人私と乾杯をしに来てくださいました。グラスの位置は私が下げても下げても彼らが下がり、私に 「ひとくちでいいよ。」と言いました。わたしは顔を歪めながら、一口飲んでみせました。

すると彼らはグラスに入った白酒を一気に飲み干しました。彼ら曰く、それが私に対する尊重と歓迎の意であり、お酒を一緒に飲むことで、友人関係がぎゅっと近くなるそうです。

 周りでは先輩同士がお酒をそそっています。普段あまり外食をすることがなく、ましてやお酒なんて日本でも飲まない人間であったので、復旦に来て初めての正式なお酒の席にわたしは少し戸惑ってしまいました。

 そして、一番驚いたのは、授業中はいつも真面目な彼らが、こんなにも弾けて、愉快な一面があることを目の当たりにしたことです。わたしは以前想像もつきませんでした。

学部、修士ともに他大学で学び、博士課程を復旦大学で取っているという先輩がほとんどでしたが、中には学部から復旦で、もう10年になるという先輩もいました。

 国際関係博士の授業を受け始めたのは、3月。わたしは履修登録の際あまり注意せず、誤って博士課程の授業をとってしまいました。わたしは、1回目の授業に参加した際、初めてなのに周りの方たちがやけに団結しており、一体感があると不思議に思っていました。

そしてあとで初めて、私以外の全ての人すべてが博士課程の同じクラスメイトだということが分かったのです。わたしは修士一年のうえに他学科で、留学生で、ということで、違うものづくしでした。  
 初めのうちは、教室では一番前の席にみんなと離れて座っていたのですが、ひとり、またひとりと友達になり、食堂で会うと一緒にご飯を食べたり、一緒にバドミントンをしたりするなどして、だんだんと周りに溶け込んでいきました。

そして、今回の私の1時間半のプレゼンを通して、彼らと私の間の壁が、ほとんど無くなったように思えました。

みなさんが、「発表よかったよ。」との温かい言葉をくださいました。そしてその日の夜、クラス会に誘ってくださったのです。

 わたしはこのお酒の席で、お酒を共にした13人の先輩方の名前を全て覚えました。皆さんが「とってもいい記憶力だね」と褒めてくださいました。

わたしは以前、人の名前を覚えるのが苦手で、顔と名前が一致しないということが度々ありました。 

しかし、中国に来てから、名前を覚えることがその人たちに近づく第一歩だと改めて実感し、人と会う度に必ず名前と名前の漢字、出身地を聞くことにしていました。中国は広いため、出身地はほとんどみんなバラバラで、その区別が印象深く名前とともに頭に残ります。わたしはそんな方法で、以前は一緒に山登りに参加した30人の名前を一日で覚えました。 

 名前を呼ぶことで、いつの間にか相手も、私のことを「Emi」と読んでくれます。これは私事ですが、私が名前を紹介するとき、「えみEMIです」と言うと、みんな「日本語の名前はなに?」と聞いてきます。中国の皆さんは「English Name」を持っているため、私の名前がそれだと思うそうです。 

度々聞かれますが「Emiは英語の名前でもありますが、日本語の名前でもあるんです、」と答えると、皆さん驚いて、その後すぐに覚えてくださいます。 

 食事のあとは、みんなでカラオケに行きました。仲の良いメンバーが集まって食事をする場合は、その数が多かれ少なかれ、必ず誰かひとりがご馳走します。それが中国の文化であるのです。決して割り勘をしません。 

わたしは大連に留学していたときそのことを学び、いまではお世話になった人にはわたしもご馳走をします。しかし、このような10人を超える人たちを招待したことは未だにありません。

 カラオケでは、「日本の歌を歌って!」とみんなから言われて、彼らのリクエストした曲はKiroroの「長い間」でした。中国語版もあるこの歌は、皆さんが知っていたようで、大きな拍手をいただきました。

 そんなわけで、先輩方と話しながら寮に帰ってきたのは深夜でした。帰る途中、わたしは国際関係学部の先輩方に自分の夢と、現在の目標と計画を語りました。先輩方からは様々な意見と、研究に対するアドバイスをいただきました。

国際関係を専攻する上で、英語は絶対に欠かせないということ。わたしが、「英語と自分の専攻を研究すること、どちらを優先したほうが良いですか?」と尋ねると、「同時にできたら一番いいね。英語はどうしても避けて通れないよ」とアドバイスをくださいました。

そう教えてくださった先輩は、9月からアメリカのオハイオ大学に留学するそうです。

ほんの少しの間準備しただけで、TOEFL102点、わたしは決して真似することはできませんが、勉強方法についてしっかりと教えていただきました。

また、修士課程の研究の経過や研究方法など、先輩方から学ぶことは尽きることがなく、こんなにたくさんの先輩方に手引きをいただけることを心から嬉しく思いました。

 「これから僕たちのクラスで集まるとき、またえみも呼ぶからね。」と言ってくださったのは、今回クラス会に招いてくださった、班長の王さんです。わたしは嬉しくてたまりませんでした。

 国際関係学部の研究生は他学部の学生には近づきがたい存在という噂をよく耳にしていました。ある先輩から聞いた話によると、「彼らが他学部の授業を受講するときは全く発言しない。国の秘密を握ってるから、簡単に発言できないんだ。でも論文を書くときは、5000字ぎっしり自分の観点を書いてみせる。」と言っていました。 

そんな近づきがたい彼らのクラス会に参加してしまったわたしは、国の秘密こそ聞いてはいませんが、彼らの弾けたプライベートの姿を目にすることができました

そして素晴らしい先輩と知り合うことができ、今後も自分の研究についてたくさんのアドバイスをしていただき、ときには共同で日中民間世論調査に基づく研究を行おうという話も、一人の先輩とすることができました。

 私にとって、夢のような一日でした。

 ということで、毎回のことながらあっという間に6000字を超える日記を書いてしまいました。これまで読んでくださった方、お忙しい中本当にありがとうございました。

 後期もあっという間にすぎ、あと一ヶ月で二ヶ月間の夏休みを迎えます。今回の夏は日本に帰国せず、湖南省の貧困地区の小学校に2週間のボランティアに行きます。

大学のボランティア活動の一環として行くため、現在は毎週末一回ミーティングを行っています。かけがえのない経験をきっと積むことができるでしょう。

 それでは、日本の皆様も健康に気をつけて、幸せで充実した日々をお過ごし下さい。

                     531日早朝 上海の夜明けに  吉永英未

2015  4月、5月 記録 

 「あっという間」という言葉はありきたりかもしれませんが、この2ヶ月の間、本当にあっという間に過ぎてしまい、毎日日々に追われ、日記のことを思い出す余裕すらありませんでした。そこで今回は、その充実し過ぎた2ヶ月を振り返ってみたいと思います。

    まず411日は、二度目の国費留学生旅行で、一泊二日で浙江に行ってきました。

留学生で集まる際は、英語が共通語となります。バスで隣になったポーランドからきたAlishaと仲良くなり、2日間楽しみました。ブルガリアからきた「シロシロ」は(名字がWhiteなので)、日本のアニメが好きな、とても愉快な友達です。学部も中国で学んだ彼は、その真っ白の肌からは想像できないほど流暢な中国語を話します。

  浙江までは復旦大学から6時間。長距離移動にも大分慣れてしまいました。 ガイドさんが、「山が見えてきたら、そこは浙江だよ」と教えてくれました。本当に、四方八方どちらを見ても山しか見えなくなったとき、ようやく目的の観光地に着きました。この頃には、大学を出発する頃は名前も知らなかった隣の留学生と、昔から知り合っていたかのように仲が深まっていました。 

   山に囲まれていることにはもちろん、「山を登る」ということです。寝ぼけたままバスを降りた私たちは、まだ心の準備が出来ていないまま出発し、その後4時間かけて山を登りました。

道は想像以上に険しく、登山の後半はみんな口数も少なくなってきました。こんなとき、国柄がとても目立ちました。

今回の旅行では、全部で57ヶ国の国から来た学生が参加したのですが、下山するとき、急な斜面を飛ぶように降りていくのはネパールから来た学生です。 

私が、「なんでそんなに早く下りれるの?」と聞くと、「僕はネパールの山で育ったからだよ。エベレストにも登ったことがあるんだよ。」と自慢げに話してくれました。 

ネパールと中国の国境にあるエバレストは、特定のトレーニングを受けて得たライセンスがなければ登ることが出来ません。世界一の山、私もいつか登ってみたいと思いました。

  山登りで疲れ切った私たちは、ホテルに帰るとすぐに寝てしまいました。2日目もひき続き山登り。しかし、登山の途中に数々のアスレチックがあり、とても楽しく登ることができました。帰りのバスの中で私は、日本の歌を披露しました。続いて引率の先生が、復旦大学の校歌を歌ってくれました。

  この大学に来てもう少しで一年が経ちますが、初めて校歌を聴きました。

 今年で110周年を迎える復旦大学は、現在その記念イベントに向けて準備が着々と進んでいます。当日には国家のリーダーや復旦卒の政治家の方々も集まり、盛大な記念イベントが開催されるそうです。

大学で学び、食べて、運動し、寝る。生活の全てをこの大学内で過ごしている私たち学生にとって、大学はもはや家以上に近い存在のようです。遠い昆山から毎週木曜日の午後大学にやっとたどり着いた時、大学の門をくぐると本当に、「家」に帰ってきたように安心してしまいます。

   516日、上海に来て初めて鹿児島県出身の方と一緒にご飯を食べました。霧島市出身、復旦大学学部生のちふ子さんです。友達伝いで鹿児島県出身の復旦生がいるということで紹介していただき、一緒にランチをするに至りました。久しぶりの鹿児島弁を聞いてとても嬉しかったです。 

  大学に戻る途中、警察の車がやけに多いことに気づきました。特に気にも止めず、「何かあったのだろうね。」と言いながら二人で歩いていました。しかし、大学に近づくにつれて立っている警察の数がどんどん増えていきます。大学が見えるところになった時、1メートルおきに警察の方が立っていました。そこでやっと、自分の大学で何かあったのだと確信しました。

  復旦大学で一番高い「復旦タワー」の入り口には赤い絨毯がひかれ、その周囲は車と警察が列を作っています。普段は解放されている芝生も、立ち入り禁止となり、黒い服を着た人たちがあちこちに立っています。ここに来てやっと、「誰か来たのだ」と思いました。カメラを構えて待っているおじさんに聞いてみると、「インドの大統領が来ているんだよ!」と教えてくれました。

  516日、インドのモディ大統領が復旦大学で講演を行いました。

復旦大学には、インド研究所があり、インドと共同で研究を行っています。この復旦大学インド研究所に新しくガンジー研究センターができたということで、インドのモディ大統領が大学で公演を行いました。 

復旦大学には、オーストリアやアイルランドの大統領に引き続き、2009年にはアメリカのオバマ大統領が訪問し、講演を行っています。

 今回のインドのモディ大統領の訪問も、事前に私たち学生に知らせることなく、土曜日のお昼に行われました。

 毎日違う姿を見せてくれる大学。ここで吸収できることを、翼を広げてスポンジのように吸収し、ひと周りもふた周りも成長することができたらいいなと心から願っております。  

 以下は4月1日からの私の『きろく』です。

4

1日  大学に桜を見に行く

    11日 、12日 国費留学生旅行 to浙江 帰ってきたらすぐ夜 支教の説明会

    18日  支教面接 (のちに合格)

    19日  バドミントン試合 団体2

    21日  復旦大学趣味運動会 たくさんの面白いイベントに参加しました。

    30日  支教トレーニングの一貫として、二泊三日の山登りの旅(〜52日)杭州 

5

3日   山東省の先輩が寮でご飯をご馳走してくれました。

    8日  日本語を教えている昆山の学校に夜から一泊。翌日「教員ツアー」に参加。乌镇

  10日  支教の体力テスト 400m×8 1622 (男女40人中1位)

  11日  木村先生来復旦。

  12日  木村先生復旦大学にて講演。

  14日  昆山の日本語学校にて、私の教えているクラスに50音のテストを実施。

  15日  キリスト教史 報告。

  16   鹿児島県霧島市出身の復旦4年生と同じく霧島市出身の社会人の方とランチ。

          インド大統領復旦大学訪問。

支教トレーニング(二泊三日の山登り)鹿児島大学木村先生の復旦大学公演につきましては、また後日文章にさせていただきたいと存じます。

日本の皆様どうかお身体に気をつけて、幸せな日々をお過ごし下さい。




後期のはじまり      吉永英未 2015.3

 後期の授業が始まってから、ようやく2週間が経過しました。2学期目ということもあり、大学生活にもだいぶ慣れてきたように思います。

 今学期から私は、2つの新しいことに挑戦しています。一つ目は、毎週火曜日の夜7時から、ボランティアで日本語を教えております。

これまで、大学生活に慣れない私を様々な面でサポートしてくれたクラスメイトの友達に少しでもの恩返しのために何かできないかと考えたとき、私にできることは日本語を話すことしかない,と考え、クラスメイトに申込みを募った

ところ、15人余りの希望者があり、教室を貸し切って毎週火曜日の夜、日本語を教えることになりました。

歴史学部のクラスメイト、特に専門が日本史の友達のために開いたクラスでしたが、友達が友達を呼んで、今は博士後期課程の先輩から、復旦の別なキャンパスから来る他学部の本科生など、20人余りの学生が集まっています。

私のような素人ですが、みんな熱心に授業を受けてくれて、本当に感銘を受けております。

二つ目は、毎週木曜日に一日「台商学校」で日本語を教えております。台商学校は、上海在住の台湾人のための学校で、幼稚園から高校まで一つの学校にあり、生徒は全て台湾籍、先生も台湾から来てもらっています。

全校生徒は幼稚園生から高校三年生まで含めて1024人で、教科書は全て台湾から取り寄せています。高校三年生のほとんどが、台湾の大学を受験します。

 なぜわたくしがこの学校で日本語を教えるようになったかと言いますと、以

前鹿児島国際大学に留学していた中国人の親友が、現在筑波大学の修士課程におり、その親友の教授のご紹介を頂いたからです。

教授の紹介ということで、電話一本と何回かのメールの交換で、正式に日本語教員として働かせて頂くことになりました。

 台商学校は、地下鉄11号線の最終駅のところにあり、復旦大学から約2.5時間かかります。もちろん、学校がこんな遠いところにあるなんて想像もしていませんでした。

4時起床、大学から自転車で大学に最寄りの地下鉄駅に行き、それから地下鉄に乗ります。朝4時となると、まだ月が出ており、自転車で駅に向かう途中はまだ夜なのではないかと錯覚を起こします。

霧の中を、ひたすら自転車をこぎます。7時になんとかスクールバスに乗ることができると、バスに揺られながら1時間、ようやく学校に台商着きます。

 初めて学校に行き、授業をしたのは、228日に上海に戻った翌日の31日でした。

学校に着くと、校長先生、副校長先生、教務科部長とお会いして、とても温かい歓迎を受けました。

「ようこそ台商学校へ」 。遠いところからはるばる来た疲れもすっかり飛んで行ってしまいました。

そして、その日から入校許可書をもらい、職員室の自分の机まで案内されました。

私は、まさか自分の机まであるとは思いもしませんでした。学校内では、先生方に温かい言葉を頂くとともに、校長先生も他の先生方も口を揃えて、「復旦大学の学生か。優秀だなあ。」「うちの高三の学生もぜひあなたの大学に入ってほしい。」など言葉を頂きます。

わたしのような、優秀ではない学生でも、先生方を始め、学生までも尊敬のまなざしです。私は、「私はあなたがたの思うような優秀な学生ではありません。」と心の中で思いつつも、自分が復旦大学の学生であることの責任を重く感じます。

 また、いろいろなところから、「吉永先生」「えみせんせい」と呼ばれますが、最初はすぐに反応できませんでした。

なぜならこれまでの人生で、「先生」と呼ばれたことなど一度も無かったからです。

言うまでもなく、私はこの学校の先生の中で一番年下の先生です。最初の授業のため教室に入った際は、前の授業の先生に新入生と間違えられてしまいました。

 そのような、初体験の連続で、私の最初の授業は始まりました。私の担当するクラスは、高校三年生の3つのクラスと、日本語サークルに入っている中学一年生から高校2年生の1つのクラスです。

最初の授業では、どうなることやら心配しながら教室に入りました。40人の学生は、真剣で、好奇心に溢れたまなざしで私を見つめています。センター試験を終えたばかりの学生たちは、現在は大学の申請をしている時期です。

様々な不安を抱える彼らを前に、私は自分のありのままを紹介しました。自分が大学受験に失敗したこと、でも重要なのは、大学の名前ではなくて、その大学で自分が何をするかということ。

センターで上手く点数をとれなかった人も、がっかりしないでほしいということ、あなたたちの素晴らしい人生は、これからだということ。新入生に間違えられながら入った教室でしたが、自己紹介からいつしか演説のようになり、どこかでしたプレゼンテーションを思い出しました。

話し終わったとき、シーンとしていたクラスから、大きな拍手をもらいました。

 「わたしは自己紹介したから、今度はみんなに自己紹介してほしい」と学生にお願いして、今度は学生一人ひとりに、名前と夢を発表してもらいました。卒業を控えた高校三年生の彼らは、「大学に行きたい」「日本に留学したい」「世界旅行がしたい」など、一人ずつ発表しました。

授業のあとは、机の周りに学生たちが集まって、様々な質問を投げかけてきました。日本について、私個人について、大学について、学生たちの笑顔と、学問を求める問いかけは、私自身を教育し、成長させてくれているものだと思いました。

 お昼は、食堂で無料の昼食が食べられます。今学期から自炊を始めたわたしは、料理ができないため、じゃがいもを炒めたものや、紫芋を蒸かしたものなど、戦時中のような食生活を送っていましたが、週に一回はおなかいっぱいの昼食を頂ける事をとても嬉しく思いました。

また、昼食の時間になると歴史担当の先生や、国語担当の先生など、様々な先生がご飯に誘ってくださり、一緒にご飯を食べてくださいます。

週に一回しか学校に来ないため、皆さん珍しそうに、日本のことや、復旦大学について、私自身の将来について質問を投げかけてきます。

その全てがわたしに、自国の文化について再認識させるとともに、自分の未来を改めて自覚させてくれます。

 午後からはクラブ活動の授業で、日本語や日本文化に興味を持った学生たちに、日本文化や簡単な日本語のあいさつを紹介しました。

2000年生まれの学生たちの好奇心に応えるために、私に話せることを必死で話しました。

 台商学校での初めての授業は、あっというまに終わり、午後345分に、帰りのスクールバスに乗りました。

何もかもが新鮮で、楽しいと同時に学生たちの好奇心や学問を求める要求に、しっかりと応えてあげたいと思った、とても大きすぎる収穫のあった一日でした。

 大学に戻ると、先生からまた「学生」に戻ります。毎週木曜日は必須科目の授業が午後6時半から9時過ぎまであり、疲れ切った身体を振るい起して授業に臨みます。

4時から、お昼寝なしにフル回転していた脳と身体も、さすがに疲れを見せ、クラスメイトからは「エミそんなに疲れた顔して大丈夫?」と心配されてしまいましたが、休み時間にクラスメイトとおしゃべりをすると少しずつ元気になれます。木曜日は、長い長い一日です。

 今学期は、5つの授業を履修することになりました。その中の一つは、国際関係学部の授業を、「飛び学科科目」として履修することになりました。

この授業を受けている学生はほとんど国際関係専攻の博士課程の学生で、外国人はもちろん私一人です。

難易度はいつにも増して高いですが、国際関係学部の先輩がとてもよくしてくださり、私のために資料を下さったり、サポートしてくださいます。

「あなたにとって中国語は難しいと思って、英語版の参考文献を添付してあげたよ。」と先輩は笑顔でおっしゃいましたが、私は英語の方はなおさら分かりません。

 316日は、東京大学の伊藤元重先生の講演を聴きました。題名は、「アベノミクス経済の展望」です。

今回は、中国語と日本語の同時通訳によるものでした。私は、講演の始まる5分前に会場に着いたのですが、席はすでにいっぱいで、一番前の列の真ん中の席しか空いていませんでした。

すると偶然にも、隣に座っていたのが講演をされる伊藤先生で、名刺を頂き、講演の後には直接質問をすることもできました。

 また、いつのまにか「先輩」になってしまったのも今学期からです。

この時期にも、日本人の新入生が新たに大学に入ってきました。

私は、洗濯機の使い方や、安いスーパーの場所、郵便局での手続きの仕方など、まだ慣れない後輩たちに一つひとつ教えてあげました。

東京芸術大学や創価大学など、出身大学も様々ですが、留学生アパートという同じ屋根の下では、家族よりも近い存在です。

忙しい日々の中で、上海にきて初めて風邪をひいてしまった時は、後輩が私の部屋まで日本の薬を持ってきてくれました。このような頼りない先輩ですが、私も出来る限り後輩のサポートをして、日本人同士の絆もしっかりと育んでいきたいと思います。

 今学期も、新しい挑戦に加えて、さっそく様々な新しい出会いもあり、毎日、朝が来ることをとても楽しみに思います。

新聞配達の仕事も前学期に引き続き行っており、今では歴史学部ほとんどの先生の名前を覚えることができました。

今学期も、一生懸命頑張りますので、日本の皆さま、どうぞ応援よろしくお願い致します。

                         322日 吉永英未


私の母          2015..2 emi

 

 母が入院したその日から、いつかはこの日が来ることを覚悟するようにと、医師から告げられていた。

母との思い出が蘇ると同時に、空白の思い出もあることに気づく。それは、私が母から遠く離れていたときのものであった。後悔していないかと聞かれると、完全に満足はしていないと答えるだろう。親孝行に、完全に満足することなど、永遠に無いように思う。

母は、物を書くのが好きだった。その「くせ」は私が受け継いだ。母は、入院した次の日から日記を書き始めた。毎日ではなく、気が向いたとき、書きたいことがあるときにペンを握っていた。

一人の時に、ゆっくりと。その日記をいま読み返すと、母の感情がじわじわと伝わってくる。母が厳しい抗がん剤の治療に耐え、そして死と向き合うことが、どれだけ辛かっただろうと思うと、いまでも胸が張り裂けそうな思いになる。

母は、どんなときも家族に弱さを見せなかった。夏のある日、母に笑顔で見送られ、病院を出た後にすぐ、私は忘れ物をしたことに気がついた。私が病室の入口に着くと、母が看護婦さんに泣きついて、子供のように泣いていた。「生きたい」と言っていた。私はその日、病室には戻らなかった。

 私は、12月6日に上海から鹿児島に戻ってきた。母はもとより、家族に内緒で帰ってきた。父と兄は、私が12月の期末テストを控えた時期に帰ってくるべきか否かでもめていた。私は、自分の意志で上海を飛び出した。ただ、母に会いたいという気持ちだけが、私をそうさせた。そのとき、このあと母を看取ることになるとは思ってはいなかった。

帰国したその日のうちに、兄に連れられ病室に行くと、母は私の期待するような反応ではなかった。前日にホスピスに移動したばかりの母の顔は、悲しげだった。

 その日、母は私に3日前に書いた手紙を手渡してきた。それは、たった一枚の私に宛てた遺書だった。

『えみの結婚式に出たかった。

えみの子供の顔が見たかった。

でも残念。間に合わなかった。

でも、お母さんは天国でずっと見守っているからね。

お母さんはやっと、苦しみから解放される。

これからはお父さんに良くしてあげてね。

えみには世界中の友達がいる。きっと幸せになれるよ。

私はいい母ではなかったけれど、あなたは良く育ってくれた。』

 「お母さんは、いいお母さんだったよ。」私は今、心からそう母に言いたい。

私の前ではいつも弱いところを見せようとしなかった母は、上海に旅立つ前も、涙は見せなかった。しかし、私の友人がお見舞いに行くたびに、友人の姿に「えみを思い出す」と言って泣いていたそうだ。

そんなことを私は、遠い上海で知る由もなかった。そのことを考えるたびに、母に寂しい思いをさせてしまったと、心に残る。しかし、あの日あの時あの時期に、夢に近づくチャンスを掴んだ私に、中国に行かないという選択肢はなかった。

母は、思いやりに満ちた人だった。祖母の家に行く途中、重い野菜を背負った見知らぬおばあちゃんを見かけては車を止めて、自宅まで送っていた。近所の叔母さんとお見舞いに行ったときのこと。私が、「10日間しか日本に居れないから、今日は病院に泊まりたい。」と頼んだところ、「叔母さんは目が悪くて運転が思うように出来ないから、送って帰りなさい。」と母は言った。

それでも私が泊まると駄々をこねていると、「お願いだから、送って行って。」母は厳しい顔で私を叱った。自分が病気になっても、人のことを一番に考える母だった。

  母は、私が帰ってきてから少しずつ意識が遠くなり始めた。一週間もすると、言葉が話せなくなった。母はそのことを分かっていたかのように、家族全員に手紙を書いていたのだ。

2013年5月2日に入院した母は、その日のうちに医師から「余命半年」と告げられた。半年後に母の姉から骨髄を移植し、姉から「希望」をもらった母は、前向きに病気と向き合うようになった.

しかし、血液のがんは再発した。そして母を、これでもかと言わんばかりに、苦しめた。私はそんな母を見ているのが辛くて、現実に向き合うことを避けていた。

やっと向き合うことができたのは、母が亡くなる一か月前だったように思う。今まで母と同じように、強気に振る舞っていた私は、電池が切れたように弱くなり、怖くなった。赤ちゃんに戻ってしまったかのような母の姿を愛おしく思う一方で、母のいないところでは、涙が流れた。

 ホスピスで迎えたクリスマスの日。高校生合唱団が病院に歌をプレゼントしに来てくれた。「上を向いて歩こう」聴いたとき、その歌詞とは裏腹に、涙が止めどなく溢れた。

上を向いてみたが、涙はやっぱり流れた。隣の人も泣いていた。きっと、同じ気持ちなのだと思った。

2月4日、私が戻ってきた我が家に母は居なかった。ただ、母がいたという名残だけが残っている。靴下を探すとき、料理をしているとき、私は母に話しかけたくなる。いつものように「お母さんと」。でも、母はもういない。

それでも母は、私の心の中に生き続けている。そう思うと、前よりもっと近くなったような気がする。

母は京都で短大を卒業すると、憧れの幼稚園の先生になった。私たちが成長すると、デイケアセンターで働くようになった。ピアノや歌を練習してから職場に向かう姿は、若い時と変わらなかったに違いない。

 母は手先が器用だった。私が幼いころ使っていたカバンは全て母の手作りである。また、トールペイントを趣味とし、資格を持っていた母は一時期、トールペインティングの先生にもなった。母の実家を解放して教室を開くと、たくさんの人が集まった。

午前中は絵を描き、お昼になるとみんなお弁当を持ち寄って、たちまち料理教室に変身した。そんな母に着いて教室に行くことを、私は毎回楽しみにしていた。母の絵の才能は、兄が受け継いだようである。

 母も昔は、わんぱくだったそうだ。ある日私は、家の鍵が無かったため、車によじ登り、そこから二階のベランダに飛び移り、泥棒顔負けの手口で家に入った。そのことを母に自慢げに話すと、母は、「あなたの子供も将来車の上に乗るわよ。だって私も若いころ同じことしたもの。」と話していた。

 母が亡くなってから、父は毎日仏壇の前に座っている。何を話しているのか分からないが、お葬式の翌日、父は私に「天国でもう一回お母さんに会って、プロポーズせんといかんな。天国でもう一回結婚せんと。今度はもっと良くしてあげんと。」と言っていた。

 父と母の新婚旅行先は、アメリカだった。父と母が二人で踏んだアメリカ西海岸の土地を、私は大学四年の夏、一人で訪れた。ロサンゼルス、ラスベガス、サンフランシスコで過ごした日々は、父と母、私にとっても大切な思い出となった。

 母は、「生きるとは、人の為に生きること」と言っていた。その言葉の書いた紙を、私はしっかりとパスポートに挟んでいる。

これから踏み出す一歩一歩が、「人の為に生きる、世界平和」の夢へと繋がることを信じたい。そしてこの命を、かけがえのない命を、精一杯燃やして、周りの人たちを少しでも暖かくすることができたら、母もきっと喜ぶだろう。そして私も、人生に悔なしと言うことができると思う。母の分まで、一生「懸命」に生きたい。

吉永英未






我是一只小小            エミストリー2015

 

「壁にぶち当たったとき、いつも誰かが助けてくれる。」わたしは大学を卒業してから修士課程に入るまで、たくさんの方々の大きな手助けと、自らの熱い情熱、そして出来る限りの努力でここまで歩んできた。

 しかしここでは、情熱と、もしかしたらそれ以上の並々ならぬ努力が必要であることがやっとわかった。周りの「復旦人」と呼ばれる人たちとの能力の差、その差のあまりの大きさに、ときどき心が折れそうになる。普段何気なく接している友達とともに、学問の領域に一歩踏み入れると、その能力の差に付いていけない自分がいる。「友達」であるのに、そうではない、別な存在に見えてしまう。

 英語の長い説明文を理解することができず、パッと写真をとって、先輩に送ったところ、ものの一分足らずで、説明文の大体の内容と要点が中国語で送られてきた。私にとって、ほとんど全てと言ってよいほど、辞書を引かなければ分からないような文章だったが、彼が一つ一つ辞書を引いたとは思えない。

日本語の論文や本を数え切れないほど読み熟し、修士課程と博士課程を同時に履修しているクラスメイト、カラオケ用のライトを創作し、研究室にカラオケボックスを作ってしまった電子学部の先輩。

バドミントンの線から球が出たか出ていないか判断することの出来るマシンを作ったのは哲学部の友達である。「今学期に読んだ本」と10冊以上もの厚い本を紹介する女の子の友達は、アラビア語も習得しているという。

彼らの一つ一つの行動が私を驚かせる。と同時に、焦りを感じさせる。なぜなら自分は、彼らの足元にも及ばない能力しかないからである。

それなのに彼らは、私を御飯に誘ってくれたり、困難にぶち当たった時、わたしが精神的に倒れないようにしっかりと支えてくれる。というのも、彼らがすべてを私に代わって困難を乗り越えるわけではないからである。彼らはあくまでも私自身に問題を解決させるように仕向ける。すべて手を貸してしまうと、私の成長にならないからとじているのである。

 私がここに来て得た一番大切なものは何かと聞かれたら、わたしは[友達」「友情」と答えるだろう。落ち込んだ時、ピンチに追い込まれた時、いつもそばで支えてくれ、悲しい時一緒に涙を流し、楽しい時一緒に笑い合ってくれるのは、ここに来て出逢うことができた、かけがえのない友達である。

 

 バトミントンの帰りに王章玉先輩と歩きながら話しているときのこと。TOEFLGREなどの、アメリカの大学を受けるための勉強法について尋ねると、「僕は研究生一年のとき、ちょうどいまのエミと同じくらいのときにTOEFLを受けたよ。おもしろそうだったし、いつかチャンスがあれば留学したいと考えていたから。テストは単語を覚えることが重要。

とくにGREというテストは3万個の単語があるから単語の暗記は不可欠だよ。スピーキングは、すでにテストを受けた友達に先生になってもらって、時間を計ってもらったり、アドバイスをもらったりしたよ」彼は120点満点中、98点を取ったそうだ。

彼の話を聞いていると、テストがとても簡単なもののように思えた。しかし、スピーキング、ライティング、リーディング、リスニングの全てを含むTOEFL Testは、4時間にも及び、決して簡単なものではない。

 章玉先輩は話を続けた。「世の中には、Easyな道と、普通の道と、Hardな道がある。Easyな道は、リラックスして努力しないで、簡単に進むことができる。普通の道は、周りのひとと同じ程度の歩幅であるけばいい。でもHardな道は、相当な覚悟と、並みならない努力で必死に歩まなければならない。

あなたはどんな道を歩みたいか?」わたしが、「それでもHardな道を歩みたい」と答えると、「エミの理想はこんなに大きいのだから、きっとHardな道を選ぶだろうね。大きな理想を持つことは素晴らしいことだよ。この世界は、おもしろいことがいっぱい、大きな意義があることがいっぱいなんだ。

もし何かをやり遂げたいのなら、熱い情熱だけじゃなくて、Hardな努力が必要なんだ。すると自分をもっと強く、大きくすることができる。」

 西安出身の彼は学部も復旦卒である。毎年900万人以上の受験生のうち、北京、清華、復旦大学に入れるのは、ほんの一握りでしかない。彼がこれまでどれだけの努力をしてここまで歩んで来たのか、私には計り知れない。わたしが、「あなたたちは勉強のできる“学霸”だけど、私はそうじゃない。」と諦めたように言うと、「僕らはエミのような大きな夢や理想を持っていない。

だから卒業したらみんな企業で働く。それ以上を望んでいない。エミはその意味では僕らの上をいっているんだよ。」と励ましてくれた。そして、彼の一番好きな歌「我是一只小小」という歌を歌ってくれた。小鳥は産まれたてのとき飛べないけど、いつかは必ず飛べるようになる。この世に飛べない鳥なんていないんだ。エミも今は飛べないと思っているけれど、その大きな翼がある限り、必ず飛べると信じてるよ。」と励ましてくれた。

 入学してすぐバドミントンで知り合った四人の先輩、章玉,松,青,光光さんたち。勉強面のアドバイスはもちろん、休みの日にも遊びに連れ出してくれる彼らは、私にとってかけがえのない存在である。6月に彼らが卒業してしまうのが、私には寂しくてたまらないが、今はただ、彼らと過ごす一日一日を大切にするしかない。 

 日本人の先輩も私の大きな支えとなっている。中央大学博士課程のゆうこさんは、母のことを話すと手を握って一緒に泣いてくれた。法政大学、関西大学卒の優さんとみずきさんは、毎月何度か集まり、一緒にご飯を食べに行く仲である。私が大学に戻ってきた際は、東北料理をご馳走してくれた。「後輩には奢らせない」といつもご飯をご馳走してくれる先輩方に、いつも申し訳ないと言うと、「エミちゃんに後輩が出来た時、ご馳走してあげればいいんだよ。」という答えが二人から返ってくる。

 差出人の名前が書いていない贈り物の箱を開けると、ピンク色の綺麗なスカーフが入っていた。後から、张辉くんという同い年の人が贈ってくれたことが分かった。

毎日わくわくして、いろいろな発見があり、出会いがあり、困難があり、ここで過ごす日々のなかに、ほかの何物にも代えられない、お金でも買えない幸せや感動がある。修士課程一年前期を終えた今、改めて中国政府及び復旦大学、日本で支えて下さっている方々に深くお礼を申し上げたい。いまはまだ、飛べない小鳥でも、いつかはきっと、高く高く飛ぶことができる。そのことを信じて、私はこれからも努力し成長していきたい。そしていつか大きな翼をはばたかせたい。

復旦大学歴史学系研究生一年前期最後の日記より

 

 




大石さんお久しぶりです。 
       日本でお会いするつもりが、こちらの都合でお会いできず、大変申し訳ございませんでした。

母は、1230日の深夜に亡くなりました。

上海から一ヶ月間一時帰国し、母の最期を見守ることができて、母と一緒に過ごすことができて、本当に幸せでした。母は、わたしの心の中にずっといます。それなので、悲しくはありません。これからの人生、母の分まで、母からもらった優しさを世の中の人や動物たちに分けてあげれたらと思います。

日記といえませんが、心に思ったことを書き綴りました。もしよろしければ、HPにも残して頂けたらと思います。
もうひとつは、「母」について中国語で書いた文章です。この文章は、復旦の先生方にも見て頂き、先生方も大変感動してくださり、先生方のブログにも掲載されました。ぜひ、日中友好協会のページにも載せて頂けたらと思います。最後になりましたが、2015年もどうぞよろしくお願い致します。                                                             吉永英未

わたしにできることは

 

新しい年が明けました。私は、2015年を日本で迎えました。愛する人を失い、それを「去年のこと」と言えるようにしたのは、彼女から残された人たちへの精一杯の気遣いだったのかもしれません。新しい年を新しい気持ちで。。。

一か月ぶりに帰ってきた大学は、改めてたくさんの幸せに気付かせてくれました。毎日おいしいご飯を作ってくれる食堂の方たち、毎日21階建ての寮をきれいにモップ掛けしてくれる掃除のおばさんや、私たちの安全のために門に立ってくれている警備のおじさん。

 ここ復旦で安心して勉強し、バドミントンし、友達と一緒にご飯を食べられることは、本当に幸せなことで、それは全然当たり前ではなくて、ここに居られることが奇跡なのだと改めて気付きました。

慣れというものは怖いもので、そんな当たり前のようで大切なことを、すっかりと忘れ去っていくものです。そして私も、ここで過ごした4カ月ですっかりと「奇跡」を「当たり前」に変えてしまいました。しかし今回の一時帰国を機に、再び思い出すことが出来ました。

人間は皆、幸せになっても良いのです。それなのに人間自身は、そんなことを忘れて、一生懸命になり過ぎてしまいます。一日のうちで、一度も笑わなかったという人も、世の中にはたくさんいるかもしれません。でも、人生は幸せになるためにあって、一瞬でも多く笑顔になれるためにあるのだとわたしは思います。

そしてまた、私がそう思うのは、私はもう十分に幸せであるということを自覚することができたからです。わたしは、家族からの愛、友達、先生からの優しさに包まれて、人生の幸せを十分に満喫しました。二十歳のときに、そのことを自覚し、あとは世の中の、まだ本当の幸せを感じていない人たちのために尽くしたいと決意しました。

世界平和を夢見るのは、私が頂いてきた幸せと同じ分だけ、よかったらそれ以上の幸せを世の中の人たちに味わって頂きたいからです。そして、戦争や紛争による直接的暴力や、飢餓や弾圧などの構造的暴力に苦しんでいる人たちには一刻も早くその苦しみから解放し、幸せになっていただきたいと、心から願っています。

中国に来て、素晴らしい大学で、一人部屋の十分すぎる環境と、文武両道できる体育館など、何上ない生活を送っています。一方で、自給100円程度でゴミ拾いをしているひとや、郵便配達の合間に道端に座り込んでお昼のカップラーメンを食べている人、人ごみの中で物乞いをしている人などを見かけます。大学の警備の人は一人8時間労働で3人のみでシフトを回しています。そんな過酷な生活をしている人たちを目にするたびに、自分の背負う責任を身にしみて感じることは確かです。また、私にしかできないことをやらなければならない、と自分の人生に課された使命を感じるのです。

今はまだ能力が足りませんが、いつまでもそう言ってはいられません。残された人生のなかで、その時の最大限の能力と、優しさと努力で、一人でも多くの周りのひとに、ひとつまみの幸せを与えることができましたら、幸いです。

 

 

我的母 

我一直得,我以用只言片形容我的母。因,母亲对我而言,无疑是个世界上最大的人。
姥姥在四十岁时才有了母。姥姥曾经历过三次婚姻,母是她最后的孩子。所以,我得,姗姗的母,肯定是上天予姥姥的礼物。
手非常灵巧,她的针线功夫相当了得,我小候用的包都是她制的。她手工,很会画画,甚至过绘画教。母曾把姥姥家改造成画教室,很多人去那里上过课课结束之后,大家纷纷打开自己做的拿手菜,快地相互分享。这时画教室又成了料理教室。
,母并不是特别聪明的人。但是,她特懂得天道酬勤。得她接触一份新工作的候,由于什么都不懂所以会受人欺,有候甚至会心地哭着回家。但她并没有放弃,而是晚上抽时间认真复,不断努力,最后于适份工作。
是一位心地善良的人,她意帮助人。在一次下班回家的路上,母遇到了一位被大吹倒而破血流的老爷爷,她毫不犹豫地叫了救护车有一次,在我和母去奶奶家的路上,我遇到了一位背着很多蔬菜艰难行走的老奶奶。母停下,特意把她送到家中。这样的事情,在太多太多了。
在京都念完短期大学后成了一名幼儿园教。在养我们长大成人后,她又成老年园的教。尽管她工作极其忙碌,但她一直承担着家里的所有家。每天早早起床,早餐和中午的便当;下午回来后又不停蹄地做晚,收拾家。父常常下班很晚,但母亲总是等待他回来,他准备饭菜,整理洗衣服。
十分疼我。 在我三岁时开始我学琴。每月都我看一次戏剧
在我二十成人式的候,然我极力阻,但她了一件极其昂的和服。得当英未,每个人只能经历一次成人式。在我成人的候,我的母也曾了一件非常漂亮的和服。等你有了女孩,也一定得要一件和服哦。满脸幸福的子,历历在目。
这样,我穿着充满爱意的和服,在母的注目下参加了成人式。但是,当我第二次身穿和服参加大学毕业典礼的候,母却不能陪我了。
2013
5月份,我母得了白血病。
这时,我才从大留学来不到两个月。哥哥也大学毕业京回来才不久。全家人聚在一起开心地吃,才刚刚不到两天。
我和哥哥几乎无法接受这样一个残酷的事。父也在短时间内暴瘦了15公斤。
的病情不断化,半年后,母接受了阿姨的骨髓移植,身体状况有所好。她满怀感恩,希望能活下去。
然而一年后,癌症又复了。这时我的母瘦了三十公斤,皮肤黑了,头发也几乎都掉光了。几乎没人能出我那曾漂亮的母了。
一年半去了。这时的她,自己几乎什么都不会做了。左脚无法动弹,身上多处肿起,有说话也迷迷糊糊的。
我在复旦大学读书时,父有一次告我,你母可能只有几个月的时间了,你得有心理准
我母。。。我只有一个母。即便我几年时间,我都无法接受失去她的事
我几乎快崩了,子里满满都是母记忆
的和善笑容。母话语。母亲缝制的包。母做的美味便当。 我思念我的母
我要去看她。
我没告所有家人就机票,匆匆赶回日本。到达医院后,母亲给我一封信,是她三天前写的。封信,我瞬泪流面。

亲爱的英未,
我非常希望能参加你的婚礼。
我非常希望能看到我的女。
但很可惜,已来不及了。

我会一直在天堂看着你,陪着你。
你有各个国家的朋友,
我相信你会得很好。
你可也要爸爸好哦。

于可以从痛苦中解脱了。
我不是一个好母
但我看你长这么大,
非常开心。

在我二十三年的生命中,我深刻感受到了母亲对注的。很多人,除了眼睛,我和母亲长得很像。如果我有了孩子,我也会像母的好母,像母我一去照她。
得母的眼泪。我得母的笑容。我得母的努力。我得她我所有的
在,我想大声地妈妈,我 

 



11
月の終わり 12月のはじまり
                                   

 11月が、瞬く間に過ぎようとしています。上海の冬も、音を立てずにゆっくりと近づいているようです。朝晩は気温が多少下がるものの、昼間授業に向かうため自転車を走らせていると、汗が流れます。道端では焼き芋や、手袋、マフラーなどが売られ、迫りくる冬のにおいを感じさせます。

 今月も、とても充実した日々を過ごしました。まず、学習面では、日本からいらっしゃった教授による講義を聴くことができました。11月の第二週、第三週は、歴史学部の日本研究週間で、東京大学、京都大学、法政大学から教授が招かれ、公開授業が行われました。

 私が聴きに行った第一回目の講義は、東京大学法学部東アジアの国際関係専攻の高原明生先生による講義でした。高原先生による講義は1週間に渡って行われ、戦後から現在までの日中関係の歴史を主に日本の立場から分析し、明らかにするというものでした。私は、「久しぶりに日本語の講義が聴ける」と、ほっとしながら、講義が行われる大学内の日本研究センターに向かいました。しかし、私の甘い推測ははずれ、講義は中国語で始まりました。よく考えてみると、日本語が分かるのは私と、ごく一部の中国人の先生のみであるため、当たり前といえば、当たり前のことです。高原先生の講義は、終始和やかな雰囲気で行われました。講義のあとの質疑応答では、質問が途絶えることなく、

私は、講義の後先生に直接お話を伺いにいきました。「中国で修士課程を学ぶのは大変だろうけど、頑張ってくださいね。熱中する、没頭することが鍵ですよ。」と最後に応援の言葉を頂きました。

 水曜日午後の日本近代史の授業の時間は、授業をする代わりに、法政大学からいらっしゃった渡辺浩先生の講義を聴くことになりました。今回の講義も、もちろん、中国語で行われました。40歳から中国語を学び始めたという渡辺先生ですが、学生の質問にも中国語や英語で答えておられ、私は感服するばかりでした。講義の後、先生とお話をすることができました。私は、先生の本を頂けませんか?と聞くと、先生は日本に帰国してから送ってくださるとおっしゃいました。そして112日、本当に私の住む学生寮に送られてきました。「贈呈 吉永英未様」と直筆で書かれたしおりに心から感動しました。 

 1128日、復旦大学に来て初めて自分の専門分野のプレゼンテーションを行いました。日中関係の歴史について、それが専攻ではない方たちに、少しでも理解して頂けたらと思いました。プレゼンの前は、学くんという同い年の同級生に翻訳などを手伝ってもらいました。彼は同い年ですが、修士課程と博士課程を同時に取得するプログラムをとっており、歴史学部でも有名な「学霸」です。「学霸」とは中国語で、勉強が人並み外れて出来る人のことを指します。

日本史を専攻している彼も、馮先生の学生です。 

 1123日は、復旦大学と上海財経大学とのバドミントン大会に参加しました。いつも一緒にバドミントンを楽しんでいる先輩方と一緒に団体戦に出場し、2位という結果でした。私の準決勝のシングルの相手は、前回負けてしまった相手でした。次に戦わなけれならない私は、不安を抱えながら、男子シングルで戦う先輩を見守っていました。先輩は、自分よりも体の大きい相手と一生懸命戦い、なんと前回負けた相手から勝利を勝ち取ることができました。私は試合が始まる前に、堂々と戦う先輩の姿を見て感動し、精一杯戦う勇気をもらいました。精神を全て試合に集中させ戦った結果、私も前の試合で負けた相手に勝つことができました。心の底から嬉しかったです。人間はときに、気合いというものが実力を越えることがあるようです。

 12月6日は院系杯と呼ばれる大会があります。みんなそれぞれの学部に分かれ、医学部やコンピュータサイエンス学部などなど、復旦大学すべての学部から、それぞれひとチームずつ出場する年に一度の大きな大会です。私は歴史学部代表として女子バドミントン団体戦に参加します。今回は1位を目指します。

 ここで、大切なお知らせが二つあります。

 2015316日から20日に韓国で行われる学生国連会議に参加することになりました。Harbard ModelUnited Nationsというこの会議は、ハーバード大学主催で世界各国から集まった学生代表が、それぞれの国の立場に立ち、国連と全く同じルールにのっとって会議を行うというものです。韓国ソウルで行われる2015年の会議に、わたしは復旦大学留学生代表として、参加することになりました。

 復旦大学チームのメンバーは全部で9名。それぞれ世界各国からの留学生で構成されています。毎週金曜日の夜7時からミーティングが行われ、会議に向けてのシュミレーションなどを行います。私にとって、一つの大きな挑戦になります。しかし、夢に近づく大きな一歩であることは、間違いありません。

 もうひとつのお知らせは、24日から28日まで日本に一時帰国いたします。もちろん、ふるさと鹿児島に帰って参ります。約半年ぶりの日本で、一カ月満たない間ですが、日本でお世話になった先生方をはじめ、友達、そしてかけがえのない家族と再会できる日を楽しみにしております。

 帰国する前に、乗り越えなければならにのが期末テストです。木曜日午後からの英語の授業は、英語の論文を読み、それを中国語で要約するというものです。私にとって、ハードルは棒が全く見えないほど高いです。そこで先日、私はテストのハードルを下げて頂けないかどうか、先生の研究室にごまをすりに行きました。若い女の先生なのですが、「留学生も中国人学生も、テストの要求は全く同じです。」というとてもストレートで簡潔な一言であっさりと断言されてしまいました。ということで、期末テストの英語のテストは、私にとって未知の内容の英語の論文を解読し、中国語で要約をしなければなりません。

絶望の壁の姿は見え隠れしていますが、必須科目である以上、もちろん最後まであきらめません。

 ということで、冬の寒さに負けない情熱で、これからも走り続けます。




                             Emiより







23回目の誕生日

2014118

118日、23回目の誕生日をここ上海で迎えることができました。誕生日会のお話をする前にまず、ここ一カ月なぜ日記を更新することをためらっていたのかをお話いたします。

 復旦大学の研究生になって、前期の授業の半分が過ぎました。私は、「挫折期」に入りました。授業は、中国語(言語)の授業を除いて、先生が何を言っているのか分かりません。理解することが大変困難です。主な原因は自分の歴史に関する基礎知識が無いこと、予習が十分に及んでいないこと、そして先生の話す内容は、私がこれまで触れたことのない未知の世界であるためです。

 鹿児島では自信のあった英語も、こちらではみんなの足元にも及びません。私は焦りました。しかし、諦めたくもなりました。これまで一番前で背筋を伸ばして聞いていた授業も、だんだんと疲れて来て、後ろに座るようになりました。とくに、授業の内容が分からない授業ほど、逃げるように後ろに座るようになりました。そして授業中は、授業が早く終わることだけを願っていました。

 そんな自分ではいけないと思いつつも、周りのクラスメイトに着いていけなくなってしまった私は、完全に自信を喪失してしまいました。ホームシックになり、「鹿児島に帰りたい」と思っていました。

 私は、鹿児島で出会った中国人の親友にメールを送りました。彼女ならきっと私を慰めてくれる、元気づけてくれると思ったからです彼女からのボイスメールは、私に大切なことを気付かせてくれました。「ほかの人と比べなくていい。自分に出来る精一杯を尽くせばいい」。「他の人と比べなくてもよい」この言葉が、私にとって何よりもの支えになりました。そんな簡単なことに、私はこれまで気付かずに、一人でもがき続けていました。

  「自分は少しずつ成長するんだ。焦らなくていいんだ。自分にできるベストを尽くせばいいんだ。」私は自分に言い聞かせるようになりました。

また、いま苦しいということは、自分にまだ伸びる余白があるということです。周りの環境に刺激を受け、更に大きく成長、飛躍することができます。まだまだ滑走路にも到達できていませんが、ここで諦めることは何があってもいけません。

10月31日、復旦大学の哲学学部の吾金老がこの世を去りました。私はお会いしたことがありませんでしたが、先生の講演をインターネットを通して聴き、感銘を受けました。そして、哲学学部にろうそくを灯しにいきました。先生がそっと教えてくれたのは、「不管从里来的,不管的背景是什,来到旦,就是旦人。我要有更高的任去努力,实现自己的梦想。どこから来たのか、私の過去がどうであるとかは問わない。復旦に学びにきたのなら、あなたは復旦人であることに変わりはない。

 私はこれまで、周りに付いていくことができず、「自分は周りの学生には及ばない。どんな教科にも付いていくことができない。わたしはこの大学に居てもいいのか?」と何度も問い続けていました。しかし、先生がもし生きていらっしゃったら、きっと私が復旦に来た事を歓迎してくれるだろう。そして、この言葉を送ってくれるだろう。と思ったのです。

 11月1日から私は、自分に自信を持つことにしました。なぜなら私は、復旦人だからです。

 趣味として楽しんでいたバドミントンも、10月12日の大会で3位になったのをきっかけに、復旦大学の校(大学のチーム)に入ることができました。毎週月曜日と木曜日に練習があり、レベルの高い学生たちと一緒に楽しみながら汗を流しています。

日本の誇るべき技術

日本について、客観的に見ることができるのも、海外で留学しているからこそできることです。中国人はほとんど、日本のアニメを見て育ったそうです。日本語が話せない人でも、「真実はいつも一つ!」「海賊王にオレはなる!」など、アニメの中のセリフを嬉しそうに私に話してきます。

また、高分子学部の学生からは、日本の高分子技術は世界一だ。僕らは授業で、日本の技術を学んでいる」と聞いたり、中国語の授業で環境問題を討論した際、日本のゴミの分別の仕方が注目を浴びたり、私の知らない「日本」が、様々なところで絶賛されていました。

また、バドミントンチームでも、「バドミントンメーカーと言えば、日本のヨネックスだ。君の国の技術は素晴らしい」と言われます。

普段日本に暮らしていて、私たちが当たり前のように使っているものが、「Made in Japan」として世界で絶賛されています。普段気にも留めない日本の科学や学問の発達が、世界では注目を浴びて、日本から学ぼうとしています。

自分の成果ではないですが、日本人であることに誇りを感じたことは確かです。

 誕生日会

 11月8日は、私の部屋で誕生日会を開催しました。前々から、誕生日にはお世話になっているみんなに日本料理をご馳走すると決めていました。

そしてその前日である金曜日の放課後、先輩であり、料理の達人であるみずきさんと一緒に、作る予定の日本料理の材料を買いに行きました。まずは野菜の調達です。自転車で学校から一番近い市場に行き、材料の野菜はとても安くで、両手いっぱいの野菜を手に入れることができました。

そして休むことなく、今度は日本の調味料を調達するために、二人でバスに乗って「五角場」という街に出ました。普段広い学校の敷地から出ないため、久しぶりに学校の外に出るとすべてが新鮮で、新しいものを見るたびにわくわくしました。相変わらずジェトコースターのような公共バスに乗っては、子供のようにはしゃいだり、買い物の途中で小包を二人で買い食いしたりと、とても愉快な買い物です。

私たちはデパ地下の輸入品売り場で、お好み焼きソースや、鹿児島のしょうゆ「むらさき」などを買いました。値段は日本の3,4倍です。

 気づいたことは、上海のデパートのデパ地下にはたくさんのおいしいものが並でおり、日本の山崎パンやCOCOカレーなども入っています。まさに、日本に居るような錯覚を起こします。ホームシックになったときは、ここに来るのもいいなと、そっと思いました。

 日も暮れて、帰宅してからは翌日の料理の下準備を開始しました。私は普段は学食で10元程度でご飯を済ませますので、料理をすることがありません。先輩に手取り足とりで指導を受け、里芋の煮付けとポテトサラダを作りました。作り終わったのは夜8時半。素の麺と咸蛋(塩で漬けた鴨の卵)を食べて、今度は夜9時から10時半までバドミントンをしにいきました。

 帰宅後も、午前3時まで起きて部屋の会場作りをしました。いよいよ次の日が私の誕生日です。

 日本では普通、誕生日を迎える人がおごられますが、中国の文化では、誕生日を迎える人が周りのみんなにご馳走します。

 私は今回、日本人の先輩方と一緒に料理をすることにしました。先輩方は忙しい中、朝10時に集まってくださいました。博士課程のかなこさん、修士2年生の優さん、3年生のみずきさんです。日本人の先輩方がこれだけ勢ぞろいするのも、奇跡的です。

 11時を過ぎるとだんだんと招待をした友達が集まってきました。留学生寮は、そこに住んでいる学生が居ないと外部から入ることができません。私たちは料理を作りつつ、ひとり、またひとりと集まってくる友達を留学生寮ゲートまで迎えに行きました。

 料理は日本料理のからあげ、お好み焼き、コロッケに加え、パスタやサンドイッチなど、様々な料理が並びました。すべて出来上がったのは午後1時を過ぎていたと思います。私の部屋は、友達でいっぱいになりました。ご近所のオランダ人のMax、ロンドンから来たSteve、韓国人のジヌオッパ、スペインの Alba、カナダの Daniel、それからクラスメイトや、バドミントンの先輩などなど、全部でなんと20人の友達が集まりました。

 みんな食事を楽しんだあと、私はパソコンを開き、プレゼンテーションをしました。タイトルは、「Story of my Life」。私が大学4年生のときに鹿児島国際大学、鹿児島大学、CHESTやICEのパーティー、科論研の際に発表した内容です。今回は、英語で発表する力がなかったため、中国語で発表しました。長いプレゼンでしたが、みんな真剣に最後まで聞いてくれました。そして発表の後はみんなから励ましと、お褒めの言葉をいただきました。理学部の先輩からは、「えみは僕らが見たことのない世界を知っている。その面ではえみのほうがずっと先輩だよ。」哲学部の友達からは、「君は可能性に秘めた小宇宙だ。世界平和の夢はきっと叶うと思う。」などの言葉を頂きました。

 プレゼンの後は、みんながハッピーバースデーの歌を唄ってくれました。私がケーキを20等分して、二人ひとつのお皿に乗せていきました。

 ケーキの後は、先輩がマジックを披露してみんなを驚かせてくれました。パーティーに来てくれたのは、わたしが、様々なところで知り合った大切な友達ですが、そのお友達同士は必ずしも知り合いとは限りません。といいますか、ほとんど初対面の人たちが、私の誕生日をきっかけに、ひとつの部屋に集まりました。

部屋が狭かったことと、お皿が足りなかったため、二人一組、または三人一組で使わなければならなかったため、みんなコミュニケーションをとらざるを得ず、それぞれみんな友達になってしまいました。

 パーティーのあと、「えみ、〇〇さんの連絡先教えてくれる?」というメールが殺到しました。パーティーをきっかけに、また新たな国境を越えた友達が生まれたことに、とても嬉しく思いました。

最後はみんなで片づけをしてみんな帰路につきました。ゲートまでお見送りする途中、先輩が私にこう言いました。

「これまでは世界平和などありえないと思っていた。けど、可能性は無くもないと思った。こんなにたくさんの国から友達を招いて、世界中の人と繋がっている英未は、僕のこれまでの概念を根本的に変えた。夢に向かってがんばれよ。」

そんな先輩は、私にプレゼントとして地球儀を送ってくれました。夜になると光りながら回る地球儀は、わたしの大好きな宝物となりました。 

初めて上海で迎えた、23回目の誕生日は、友達に囲まれて、「こんなにたくさんの友達に誕生日を祝福してもらったえみは、世界一幸せだよ」という友達からの言葉通り、世界一の幸せものになれた一日でした。

 これから先、落ち込むことも、困難にぶち当たることもあると思いますが、転んでも、きっと立ち上がることができるでしょう。なぜなら私の周りには、こんなにも大切な愛おしい友達がいるからです。

 23歳の吉永英未もどうぞよろしくお願いいたします。





3回目の誕生日まであと一カ月

108日。晴れ。

   一週間の長い休みが終わりました。クラスメイトの中には、北京や香港など、中国各都市に遊びに行く友達がたくさんいました。しかし、上海に残る人も少なくなかったようです。私もその一人で、この休み、大学に残っていました。

   7日間の休みは、あっという間に感じました。休み初日は、国籍の違う仲間たちと一緒に、上海の観光地に行きました。「国慶節に旅行に行くものじゃないよ。景色を見に行くというより、人を見に行くようなものだから。」と何人もの中国人に脅されましたが、たまには観光も良いものです。

   大学から地下鉄にのり、バスに1時間揺られて着いたところは「朱家角」という観光地です。途中、友達の友達、なんと大連外国語大学の留学生二人と合流しました。イタリア人のEliaとロシア人のJuriaです。彼らはこの長期休暇を使って遠い大連から上海に遊びに来たそうです。私の交換留学先、母校とも呼べる大学から来た二人に出会えて、とても懐かしく、そして嬉しく思いました。「大連はいま、どうなっているの?」と大学の話で盛り上がりました。しかし、彼らも9月に来たばかり。旅順にあるキャンパスの近くには遊ぶところがほとんどないので、勉強にすごく集中できるよ。と教えてくれました。

  Danielはカナディアンですが、父はイスラエル人、母はロシア人で、英語とロシア語を話します。4歳の時にカナダに両親と移住しました。日本が大好きな彼は、ときどき変な日本語を話してきて、(「俺様を誰だと思っているんだ。」など)すぐに打ち解けることができました。

  それから復旦大学薬学部の二人と、哲学専攻の魏来、仲の良いスペインandブリティッシュのハーフのAlba、合わせて7人で観光しました。ほとんど初対面でしたが、国籍こそ違えど、人の海の観光地で強い団結力を魅せました。

  朝7時半に食堂に集合して、無事に帰って来たのは午後5時ごろ。それからみんなで路上で店を開いているチャーハン屋さんでご飯を済ませ、私とダニエルは理系図書館に行きました。初めて行った理系図書館は、英語の本がたくさんありました。ハーバード大学やオックスフォード大学の本、理学、数学など、ありとあらゆる理系の本や歴史の本が本棚を占めていました。ダニエルはヨーク大学からの交換留学生で、Computer Scienceを専攻しています。私がパスポートを見せただけで、私のパスポート番号を一瞬で覚えてみたり、(二週間後に会った時もまだ覚えていました)生年月日を言うと、「君が生まれたのは金曜日だね」と言ったり、本当かどうかは確認できませんが、彼の頭は数字がクルクル回っているようです。

  夜は、国慶節のため復旦タワーがライトアップされ、とても綺麗だったのでダニエルと見に行きました。芝生の広場にはたくさんの人が芝生に座り、楽しい時を過ごしていました。大学の階段ではハーモニカの演奏もあり、雰囲気はすばらしいものでした。私たちは、語り合いました。初めて復旦大学に来た日のこと、自分の夢のこと、これからのこと。彼はまだ学部生です。「私が初めて中国に留学したのもあなたと同じ年齢の時だよ」と、近いようで遠い昔の話をしました。私が大連に留学していたあのとき、まさか2年後にこの大学の芝生に座っているなんて、誰が想像できたでしょう。

  それから、この休みの半ば、私は勉強に明け暮れました。苦しいほどに宿題に追われました。というのも、世界史専攻の英語の授業の宿題は、自分の興味の持ったテーマについての英語の文献を探し、その脚注と本の最後の参考文献のに乗っている本の「脚注リスト」「参考文献リスト」を作るというものだったからです。一見、とても簡単そうな宿題に見えます。しかしこの宿題が、私たち歴史学部の学生一人ひとりを苦しめました。

まず、英語の文献には、MHRA形式(アメリカ式)とMLA形式(イギリス)があります。同じ参考文献でも、その表記の仕方が異なります。また、1、著者が2人以上の場合 2、編集者が2人の場合、3、翻訳者がいる場合など、それぞれの場合によって、表記の仕方に決まりがあります。宿題は、10つの異なった要求に基づき、脚注の本及び本の最後の参考文献の本を探し、それぞれをMHRA形式、MLA形式にするというものです。最終的には、10つの要求に沿った脚注の本と参考文献の本をそれぞれ10つずつ探し、それを二つの形式に直しますから、40の文献リストが出来上がります。 この作業は、困難を極めました。「根気」それしかありません。